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【前方後円墳ができたワケ】

前方後円墳ができたワケ
                                      日本会議愛知県本部事務局 松川秀康

古代日本独特の墳墓の形である前方後円墳。なぜこのような形となったのでしょう。
この形は、女性の子宮をかたどっているという説があります。私もこの説を支持します。

では、何故「子宮」なのでしょう。
後円部が「子宮」で前方部が「産道」です。
そして、その「産道」を出たところに鳥居が立ち遥拝所があります。そこで参拝するのです。
そうです、それは被葬者の「蘇り」を願っているのです。

では、前方後円墳はいつ頃から出現し、いつ頃に廃れていったのでしょう。
前方後円墳には天皇や皇族、地方の豪族などのものがありますが、
ここでは、歴代天皇のものに限って見てみます。
宮内庁HPの天皇陵のページから陵形を調べました。

1 神武(じんむ)天皇    円丘
2 綏靖(すいぜい)天皇   円丘
3 安寧(あんねい)天皇   山形
4 懿徳(いとく)天皇     山形
5 孝昭(こうしょう)天皇   山形
6 孝安(こうあん)天皇    円丘
7 孝靈(こうれい)天皇    山形
8 孝元(こうげん)天皇    前方後円
9 開化(かいか)天皇    前方後円
10 崇神(すじん)天皇    前方後円
11 垂仁(すいにん)天皇   前方後円
12 景行(けいこう)天皇   前方後円
13 成務(せいむ)天皇    前方後円
14 仲哀(ちゅうあい)天皇  前方後円
15 應神(おうじん)天皇    前方後円
16 仁徳(にんとく)天皇    前方後円
17 履中(りちゅう)天皇    前方後円
18 反正(はんぜい)天皇   前方後円
19 允恭(いんぎょう)天皇   前方後円
20 安康(あんこう)天皇    方丘
21 雄略(ゆうりゃく)天皇    円丘
22 清寧(せいねい)天皇    前方後円
23 顯宗(けんぞう)天皇    前方後円
24 仁賢(にんけん)天皇    前方後円
25 武烈(ぶれつ)天皇     山形
26 繼體(けいたい)天皇    前方後円
27 安閑(あんかん)天皇    前方後円
28 宣化(せんか)天皇     前方後円
29 欽明(きんめい)天皇    前方後円
30 敏達(びだつ)天皇     前方後円
31 用明(ようめい)天皇    方丘
32 崇峻(すしゅん)天皇    円丘
33 推古(すいこ)天皇     方丘
34 舒明(じょめい)天皇    上円下方
36 孝徳(こうとく)天皇     円丘
37 齊明(さいめい)天皇    円丘
38 天智(てんじ)天皇     上円下方
39 弘文(こうぶん)天皇    円丘
40 天武(てんむ)天皇     円丘
41 持統(じとう)天皇      天武天皇と合葬

第八代孝元天皇から前方後円墳となります。その頃から「蘇り」の気持ちをこめて
円丘に前方部を追加した前方後円墳としたのでしょう。
前方後円墳は敏達天皇を最後に廃れてしまいます。何故でしょうか。
それは、その後の天皇が仏教に帰依し輪廻転生の考え方を持つようになったからだと考えられます。
仏教に帰依した曽我氏系の用明天皇から前方後円墳でなくなります。
曽我氏系ではない舒明天皇以降も仏教の考えが浸透していったのでしょう。
天智天皇以降は御位牌が御寺泉涌寺に祀られています。
それでも神武天皇陵から用明天皇陵以降も平安時代に入るまで天皇陵には必ず鳥居があります。
日本独特の神仏習合の考え方なのでしょう。

では、第二十代安康天皇、第二十一代雄略天皇、第二十五代武烈天皇は何故、前方後円墳でなかったのでしょう。
それは、蘇って欲しくなかったからなのです。

安康天皇は自分の後継者に市辺押磐皇子を推したかったらしく、安康天皇が眉輪王に殺された後、雄略天皇は市辺押磐皇子を謀殺して皇位につきます。当然、安康天皇には蘇って欲しくはなかったでしょう。

驚くべきは雄略天皇です。雄略天皇がお隠れになり皇子の清寧天皇の御代元年冬十月九日に、陵に葬られます。二年には、「市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報を得、勅使を立てて明石に迎えさせる。翌年二王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘計王を皇子とした。(ウィキペディアより)」清寧天皇の御代五年に清寧天皇がお隠れになった後、なんと「古事記」に記してあるのは、顕宗天皇は兄(のちの仁賢天皇)に雄略天皇の御陵を破壊するようにお願いし、実際にのちの仁賢天皇は、雄略天皇の御陵を少し削ったというのです。航空写真を見れば一目瞭然です。

誰が見てもこれは、前方後円墳を削り取ったものであると思うでしょう。そう、のちの仁賢天皇は雄略天皇が蘇らないように後円部と前方部の接合部を削り取ったのです。つまり、前方後円墳はそのころ間違えなく「子宮」と「産道」を表していると理解されていたということなのです。

武烈天皇は、暴君として記紀に記されています。武烈天皇がお隠れになり仁徳天皇の皇統が途絶えた後の継体天皇もやはり武烈天皇には蘇って欲しくなかったと思われます。

お三方の天皇陵が前方後円墳でない、いや雄略天皇の前方後円墳は削り取られて円丘と方丘に分かれてしまったのはこのような合理的な理由があるのです。
やはり、前方後円墳は被葬者の蘇りを願った形であるといわざるを得ません。

平成二十七年六月二十一日