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  update 2007. 11. 11

踏 破 日 2007/11/4
コースタイム 8:50〜11:50
歩 行キロ 6.9q
累 計キロ 124.9q
踏 破 率 25.4%

 
千本松原と富士山

JR沼津駅〜原一本松一里塚
 

(前のおでん補給して沼津着へ戻る)

 

   沼津駅から前回の終点である三園橋交差点へ出る。少し先に三園橋が狩野川を渡っているので、そこから一枚撮影する。(右写真)

   写真で見てもわかるように狩野川沿いに街が開けており、これは江戸時代の沼津宿においても同様である。したがって旧東海道もこの狩野川のカーブを辿るように下図のような道筋をとっている。

  (右下の写真は三園橋交差点の歩道橋から西方向を見ての撮影)

     

    <沼津付近の概略図>

   
    

    賑やかな道から斜め左へ入る道が旧東海道「川廓(かわくるわ)通り」である。狩野川に沿ったこの通りの右手は沼津城跡になる。

    川廓通りの案内板は→こちら 
(戻る際はブラウザの「戻る」ボタンで戻って下さい)

    

 

    この付近は大きなビルが建ち並ぶ道路で、昔の沼津宿もこの付近が最も賑わっていたようである。写真は西方向を見ているが、旧街道はこのように道を折れ「アーケード街」をしばらく南進する。

 

     

 

   南進したあと、右折して県道160号線を西北西へ。午前中の順光が大変有り難い角度であり一気に道のりを稼ぎたいところだが、ちょっと近在の千本浜公園へ寄る。

 

    

 

   上の旧街道から10分ぐらい歩くと「千本浜公園」へ出る。駿河湾、富士山、千本松原の調和がなかなか良く、ここはお勧めの立ち寄り先である。大きな建物がない江戸時代には旧街道からもこのように富士山が見えたものと思われる。

   さて県道へ戻り西へ。沿道に浅間神社が目立つが、これは富士山信仰によるものと考えられる。   

   

 

   やがて遊歩道が斜め右奥から左手前へ横切る交差点に出る。この遊歩道は昭和49(1974)年に廃止された国鉄沼津港線(東海道線の貨物支線/通称蛇松線)の跡で、写真に引いた緑線のように線路が横断していた。

   残念ながらこの付近に線路は残っていないが、少し歩くと道に埋もれかけた線路跡があるそうである…が、それを探しては大変なロスタイムとなりかねないので今回は涙をのんでパス。

      

 

   しばらくは史跡らしい史跡が無く、ひたすら西進。

   写真は旧国道1号線とクロスする西間門(にしまかど)歩道橋から。ここも直進である。

      

 

   道の右手に八幡神社が見えてきた。右端に「従是東(これよりひがし)」の石碑がある。この石碑は下半分が欠落しており、その下には沼津領の文字があったものと思われる。

   当時は領地(天領・私領)が入り組んでいた場所にこのような石碑を建てて領界の目印としたようである。

      

 

   さぁやっと本日一つ目の一里塚跡に辿り着いた。JR片浜駅の少し手前、大諏訪松長一里塚(日本橋から31里)跡である。

   この一里塚跡の石碑はその碑文から平成16年8月に松長自治会が建てたものとわかる。それまではこの付近には何も無かったようで、旧街道踏破の先達諸氏を悩ませたようである。

      

 

   片浜駅を右手に見て少し歩くと東海道本線とクロスする。この先からしばらくは東海道本線の北側を歩くことになる。

 

      

 

   沼津市には沼津宿の他にここ原宿もあったのだが、宿場町であったという雰囲気はあまり残っていない。右写真はJR原駅近くにある渡辺本陣跡である。渡辺家は阿野全成(源義経の兄で出家した)の子孫であり、原宿が出来てからは幕末まで代々本陣を営んだそうである。

      

 

   渡辺本陣跡を過ぎてさらに1キロちょっと歩くと道の左手に一里塚跡がある。ここは一本松一里塚、日本橋から32里である。

   この一里塚跡は写真の碑文が私邸の門前にあるだけで、もちろん無いよりはましなのだが簡単に過ぎる感じで拍子抜け。郷土史研究家や市の教育委員会の奮起が望まれる。

  →次は凝視されたし左富士です。