トップページへ          平成の旧東海道を歩くへ  

  update 2007. 11. 11

踏 破 日 2007/11/4
コースタイム 14:30〜17:30
歩 行キロ 8.6q
累 計キロ 143.2q
踏 破 率 29.1%

 
あぁ道間違えロスタイム

吉原左富士〜JR富士川駅
 

(前の凝視されたし左富士へ戻る)

 

   左富士を過ぎると道は左(西)へとカーブを描き、いわゆる左富士がほんの僅かな区間のみの演出であることを実感する。その左富士から少し歩くと「平家越」の碑が建っている。源平の富士川の合戦にちなむもので、水鳥の羽音に驚き退散する平家の故事は有名である。

  <吾妻鏡/治承四年十月廿日 >
   半更(夜更け)に及びて…富士沼に集まるところの水鳥等群れ立つ。その羽音ひとへに軍勢の粧(よそおい)をなす。これによって平氏等驚き騒ぐ…。羽林(平維盛)…天の曙くるを待たず、にはかにもって帰洛しをはんぬ。

       
 

   さらに西へ歩くと岳南鉄道の吉原本町駅にさしかかり、旧街道は踏切を渡る。岳南鉄道の電車は単行(一両編成)である。

 

    
    

   踏切を渡った先に続く商店街が吉原の中心街で、かつての宿場町もこの付近を中心に栄えたようである。また、この商店街の賑わいを見ると、JRの吉原駅が全くの町外れにあることがよくわかる。

   右の石碑は明治天皇御小休所跡を示すものである。明治天皇が旧東海道を通ったことに関する記念碑は非常に多く、いちいち取り上げるとキリがないのだが、たまには良いだろう。 

      

 

   この付近から旧街道は左折・右折を繰返し、紛らわしい道順となる。基本は少々うらぶれた道だが県道22号線を辿れば正解である…が、自分はここで曲がり角を一つ間違えてしまいビル裏の路地へ迷いこむハメになってしまった。携帯のガイドブックは概して正確な地図を載せているのだが、この付近は道の省略がありヤラレタ!

   間違いに気づいてから戻るまでのロスタイムが実に痛い。時刻は15時をまわり、落ちる影も長くなってきた。今回も日暮れとの勝負になりそうでツライところ。

 

       

 

   いったん交通量の多い広い道に出るが、程なく脇道へ。道の雰囲気も夕方らしくなってきた。う〜んマズイぞ、富士川へ急げ〜!

 

      

 

   【鶴芝の碑】  

   この付近にあった鶴の茶屋から雪の富士山を眺めると、ちょうど中腹に一羽の鶴が飛んでいるように見えたため、この奇観を讃え碑文に残したものである。   

 

      

 

   先ほど分かれた広い通りを斜めにクロスして南西への道をとる。するとゆるやかに右カーブを描く道となるが、望月整形外科の先に本市場一里塚跡(日本橋から35里)がある。

   書籍や先達のHPには花壇の脇にあると紹介されているが、今の季節は植込み自体がない。そんなわけで道を渡ってからしばらく花壇ばかり探していて、ここでも少し時間をロスしてしまった。でもこれは自分が悪いね、素直に道に従えば自動的に辿り着くのだから…。(泣)

 

          

 

   JR身延線の高架をくぐると遂に太陽が隠れてしまった。右写真も露出を多めにかけており、実際はもっと暗くなっている。

   この付近からいったん北側の脇道をとるのだが、右への分岐点がわかりにくく自分はここでも一つ早く右折してしまった。いくぶん歩いてからこりゃ変だと慌てて戻った次第で、ポイントは写真にある常夜灯(石灯籠)が見えるまでは右折絶対禁止という点である。

   もう日没だと言うのに、ここでの時間のロスは非常に苦しい。西(進行方向)には山がそびえるために日の入りが早いのも実にツライところである。

          

 

   ほうほうのていでヤットコサ富士川に辿り着き、渡る。写真で見ると普通の曇天時ぐらいの明るさだが、露出をウントコサかけたので実際は非常に暗い。陽光が山の稜線に隠れてから20分ぐらい経過しており、もう少し遅かったら撮影自体がアウトだったかも知れない。

   結局前回に続き日没に追いかけられるスケジュールとなってしまった。オマケに今回は昼飯抜きでシンドかった…でも痩せたな、たぶん。(何でも良い方に解釈する)

        

 

   富士川を渡った後さらに旧道へ入り、岩淵一里塚などを経由して富士川駅(写真)に着く。さすがに道の様子や旧跡の撮影はムリだったので、この辺は次回のおさらい版で救済することにしよう。

 

  →次は旧道はのんびり蒲原宿です。