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  update 2007. 12. 2

踏 破 日 2007/11/23
コースタイム 12:00〜15:10
歩 行キロ 7.3q
累 計キロ 159.0q
踏 破 率 32.3%

 
絶景なり薩

JR由比駅〜JR興津駅
 

(前の桜えびと宿場町で町おこしへ戻る)

 

   これは由比駅正面に立つ標識、薩埵峠の「た」は普段お目にかかる漢字ではなく、自分も今回の旧東海道踏破で知った。他には仏教の「菩提薩埵(ぼだいさった)=菩薩」という使い方ぐらいだろうか?

       
 

   県道を歩道橋で渡り、旧街道は山に沿うような集落を縫うように続いていく。この付近は山と海が迫っており、狭い場所に国道1号・東名高速・JR東海道本線はもちろん、旧街道と集落も平行して続いている。

 

    
    

   集落がいったん途切れる付近で左後方を振り向くと富士山が見えた。やはり雲よりも山頂が高い。

 

      

 

   左手の一見民家に見える建物は「望嶽亭」と呼ばれる建物で、かつて茶屋として富士の眺望が素晴しかったためにこの名が付いたと言われる。

   道はここで分岐、峠への道は右の登りとなる細道である。いよいよ峠越えらしい雰囲気となってきた。狭い道であるが、時折クルマが通るので注意したいところである。

       

 

   道はどんどん登ってみるみる標高を稼いでいく。駿河湾を見下ろす景観は確かに良いのだが、右写真のようにガードレールのない部分が少なくなく、高所恐怖症の人は下を見ないほうが良さそうである。

   ところで手元の携帯用ガイドブックには先の望嶽亭から150メートルほど登った地点に一里塚があるはずなのに…ない。更に登って探すべきか、思い切って引き返すべきか、峠へ向かう道で決断に迫られた!

   そして採ったのは“引き返し”であった。逆行して道を下る。

 

      

  

   なんと西倉沢一里塚跡(日本橋から40里)は先ほどの望嶽亭の斜めトイメンにあった…。2つ上の写真で右端の建物の陰になる部分に石碑と看板が建っており、完全に盲点となっていたようである。悔しいねこりゃ。でも単一の資料を安易に頼った自分にも非がありそうで、事前にインターネット等で現地の情報をチェックしなければいかんと認識した次第。

   なお「一里塚跡」の隣に立て掛けられている杖は峠への登坂者の便宜をはかって置かれたものである。   

         

  

  同じ急坂を2度登るのはなんともツライが、一里塚跡が見つかったことを良しとしたい。(いつものパターン)

  峠に至る手前に江戸時代の道標が残っている。後方の駿河湾がきれいだが、下は文字通り断崖絶壁である。

  道はやがて十字路にさしかかるので、ここは直進せずに左手の駐車場がある方の道を進むようにする

   

          

 

   そしてついに来た、薩埵 広重の五十三次「由比」を髣髴とさせるロケーションであり、肝心の富士山もなんとか見えてくれた。遥か下を鉄道と道路が走る“平成版薩埵峠”をしばし堪能した。

 歌川広重「東海道五十三次・由比」

        富士山のアップ(135mmレンズ版)はこちら

 

   さあ今度は下り坂、途中までは階段となっており膝に負担がかかる道程であるが、気合で興津をひたすら目指す。

  

          

 

   道は造成中と思しき殺風景な中を過ぎて左へと迂回する。この付近の道は資料によっては曖昧な案内であり、また写真右端にある標識もどちらを指しているのか迷うような内容なので、ここを左折する。

  

          

 

   坂を降り切り、普通の道となった旧街道は興津川にさしかかる。今は東海道本線脇の橋を渡れば何でもないのだが、当時は人足による川渡しであった。看板には川の水量により運び賃が変わる当時の様子が記されている。

   うーん、ちょっと疲れたな…。ここで川べりの土手に上がり、靴を脱いでしばし休憩する。近くを東海道本線の電車が時折走り去るが、いずれも3〜6両と短い編成である。

          

 

   国道1号線に合流した旧街道は広い道となり、JR興津駅へと向かう。途中に右へ分岐する道はかつて身延山(久遠寺)方面へ向かう道で、当時の道標が何基か残されている。

   明日も駿河の国へ…参じる!

  ↑この写真のみ翌日(11/24)撮影

   →次は一里塚はなかった…です。