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  update 2008. 1. 9    

踏 破 日 2007/12/25
コースタイム 14:10〜16:45
歩 行キロ 9.3q
累 計キロ 200.0q
踏 破 率 40.6%

 
鉄道忌避伝説と藤枝宿

鬼島一里塚〜JR六合駅
 

(前の時間が止まった宇津ノ谷峠へ戻る)

 

   先の鬼島一里塚探しでタイムロスしてしまい、冬の午後はたちまち夕方に近づいていく。こちらも足を早めることになる。(写真は葉梨川を渡る八幡橋)

   

       

   

   藤枝宿に入る手前、この須賀神社には大楠の大木がある。なんと樹齢約500年とのことで、江戸時代の旅人も間違いなくこの木を見て足を進めたことであろう。

   

       

  

   国道1号線を斜めに横切って進むと藤枝宿である。

   宿場町は現在では商店街となり、延々とアーケードが続く様子は現代版の宿場町らしいのだが、いかんせん歩道を歩く人が余りにも少なくて空洞化した商店街の印象を否めない。これは明治になり鉄道(東海道本線)敷設の際に宿場町が鉄道を嫌ったため、現在の藤枝駅はここから南西に3キロも離れた場所に設置されている。そのため交通のメインルートから外れた宿場町が寂れてしまったという典型的なケースと考えられる。今まで歩いた旧宿場町でも藤沢や三島あたりは類似のケースとされるが藤枝ほどには離れておらず、この点歩きながら少々考えさせられた。

   (上の絵図アップはこちら)
 

   旧宿場町が明治時代に鉄道を避けたとされる「鉄道忌避伝説」、なぜ当時は鉄道敷設が嫌われたたのだろうか? 以下に列記すると…

  1.機関車からの煤煙が火災を起こす危険がある
   2.火災とまで行かずとも農作物や家畜に悪影響がある
   3.完成された宿場町では鉄道敷設の土地提供は困難である
 
  4.他の土地からの流入者が増えて治安が悪化する

   上記の他にも諸説あるが、現代人から見れば噴飯ものの理由も少なくない。やはり鉄道のもたらす効果(メリット)を経験的に知らなかったことが最大の原因と考えられる。 

    
    

   さて、たいした史跡の紹介もないまま藤枝宿を出てしまったが、実際のところ当時を偲ばせる遺跡は殆どないのが現状である。

   藤枝宿を去り、瀬戸川を渡る勝草橋を渡りきると右手に一里塚跡がある。ここは志太一里塚、日本橋から50里目である。

   写真にはないが、ここから左手(南方面)へ道が分岐しており、これは田沼街道と呼ばれている。江戸時代中期の老中田沼意次(ワ○ロで有名?)が港へ向けて開いた街道であるためこの名がある。

       

 

   いよいよ夕方になった。冬至から数日しか経っておらず日の短いのは十分承知なのだが、少々あせってくる。

   時刻は16時ごろ、藤枝宿と島田宿のほぼ中間にある松並木にさしかかった。道の両側に残っているのが貴重と言える。

      

  

   日暮れを心配してひたすら歩いたら前の志太一里塚からもう4キロ歩いてしまった。ここは上青島一里塚、日本橋から51里目の一里塚である。少し前までは一里塚の形状が後方の駐車場付近に残されていたらしいが、今は写真のような杭と石標のみである。

   JR六合駅に着き、日本橋からちょうど200キロ到達である。   

    →次はカルガモは昔も今もです。