update 2008. 3. 9
踏 破 日 | 2008/3/2 |
コースタイム | 9:00〜11:10 |
歩 行キロ | 4.0q |
累 計キロ | 207.0q |
踏 破 率 | 42.1% |
JR島田駅〜金谷一里塚 |
(前のカルガモは昔も今もへ戻る)
春3月、少しは暖かくなったのだろうか…約2ヵ月のブランクを経てJR島田駅に降り立った。さぁ本日もひたすら西へと足を進めてみよう。 島田駅から少し歩くと道の右手に大井神社がある。ここは旧県社とあって相応の格式を感じさせるが、今日も例により長居はできないので入口(鳥居)付近を簡単に見るにとどめた…が、良く見るとこの神社の参道にある土手石垣は川越稼業の人たちが1日1個大井川の河原から持ち帰って積んで出来上がったとあり、大井川との関係を伺わせる。 |
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大井川への旧道はここを左折する。道路にも「川越遺跡」の標識が出ているのでわかりやすい。
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左折した旧道は当時を思わせる趣のある道となる。ここは国指定史跡の「島田宿大井川川越遺跡」であり、当時の町並みが復元されている。建物によっては無料で内部を見学できるのだが、驚いたことに現在も住宅として使われている建物が多く、この遺跡が地元の人たちの協力によって支えられていることを実感した。
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道を進むとやがて「川会所」の建物がある。「川会所」とは大井川を渡る旅人が「川札」(川越人足を雇うための札)を買った場所である。旅人は川越場に待機している人足にその「川札」を渡して大井川を渡る仕組みであった。 通常の渡り方は人足に肩車をしてもらう方法だったが、身分の高い旅人は蓮台に乗ることもあり、その場合は川札とは別に「台札」も別途購入する必要があった。また「川札」も人足数だけ要した。
今は往時の蓮台や役人(蝋人形)を初めとした川越の資料を無料展示しているので、ぜひ見学してみたい。
【蓮台の写真】はこちら |
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さて川会所を出ると目の前に大井川の土手が迫ってきた。さあ、この土手の上に立ってみよう。
箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川
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土手に上がると視界が開け、広々とした大井川の河川敷となる…のだが、肝心の川の流れが殆ど見えない。なんと見えるは膨大な川砂利の堆積ばかりで正直拍子抜けしてしまった。 まぁ今は水量の少ない時期なのでこの光景は止むを得ないのかも知れない。もちろん川幅は非常に広く、北側にある写真の道路橋は距離にして1kmの長さがある。増水時にはかなりの水量を想像させ、これが江戸時代であれば「川止め」となったことは容易にわかる。 |
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それでもせっかくの来訪なので河川敷の遊歩道へ降り、なるべく川の近くまで行ってみる。ここは川と言うより砂利の採石場みたいな雰囲気、そこで意を決して川の本流があると思しき方向へ突撃した…のだが、砂利に足を取られるばかりで本流への到達はとても無理、体力と時間の浪費を惜しみ戦略的転進(要は撤退)となった。 |
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結局北にある大井川橋をおとなしく渡る。写真を見てもわかるように、渇水期には中洲があちこちにある。冬季の川越人足は寒さの点では大変だったろうが、水量の点ではむしろ楽だったのかも知れない。
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大井川を渡ると旧金谷町(現在は島田市に合併)に入り、旧国名では駿河国から遠江(とおとうみ)国へ入ったことになる。 やや古い町並みの道を進むとやがて大井川鉄道の踏切にさしかかり、左手には新金谷駅がある。ここは大井川鉄道の本社があり、みやげ物店や休憩施設もあるので立ち寄って見るのも良い。 実はここを撮影する際に蒸気機関車の列車が来れば面白いな、と思ってはいたが残念ながらハズレ。しかし江戸時代の旅人から見れば今や文化遺産の蒸気機関車にさえ腰を抜かしたことであろう。(笑) |
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金谷の町並みは日曜ということもありシャッターを閉めている店が多くひっそりしていたが、その中を通過しJR金谷駅が近づいてくると右写真の一里塚跡がある。ここは金谷一里塚、日本橋から53里目である。 |
→次は転ばぬ先の湿布!です。