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  update 2008. 3. 9    

踏 破 日 2008/3/2
コースタイム 11:10〜14:00
歩 行キロ 6.3q
累 計キロ 213.3q
踏 破 率 43.3%

 
転ばぬ先の湿布!

金谷一里塚〜沓掛・二の曲り
 

(前の大井川河川敷に立つへ戻る)

   

   JR金谷駅のガード下をくぐり南側に出ると、JR東海道本線の下り方面が牧の原トンネルへ吸い込まれていく様子が良くわかる。鉄道はこの牧の原台地をトンネルで抜けるが旧街道は山越えとなり、程なく右のような石畳道(登り)が始まる。

   この石畳道は平成にはいり当時を偲ぶべく新たに造られた石畳道であるため、箱根の石畳道よりは歩きやすい感じである。写真右手には休憩用の茶屋があるので一息入れても良いだろう。

   

       

  

   石畳道の登り勾配が少々きつくなって来たが、ここは気合で乗り切る。

 

       
 

   金谷坂の石畳道を登り切ると一旦平らな道となり、茶畑が目立つようになる。しばらく歩くと右手に「諏訪原城跡」がある。

   ここは戦国時代の山城の遺構で、武田氏が徳川氏への備えとして築城したものである。現在では建築物こそ残っていないが、空堀、土塁、曲輪などの築城技術が保存されている。

 

    
    

   さて今度は石畳の下り坂である。こちらは菊川坂の石畳道と呼ばれ、やはり平成の大普請で整備された石畳道である。但し麓の一部は江戸時代末期の石畳道をそのまま流用しており、両方の雰囲気が体験できるようになっている。

   それにしても日本茶の一大産地の牧の原台地とあって茶畑が至る所に広がっている。後方の山にある「茶」の文字はご愛嬌だろうか?

  

 

        

 

   菊川坂を下る途中、梅の花がきれいに咲いていた。当時からここに梅の木があったかどうかは不明だが、早春の旅人が梅の花にしばし足を止めたことは想像できる。 

 

   

 

   菊川坂を下りきると再び平坦な道となり、やがて間の宿(あいのしゅく)菊川に着く。間の宿とは正式な宿場町ではないが、事実上他の宿場町と同様に旅人の各種接待を行なっていた集落である。

   間の宿は正式な宿場と宿場の間の距離が長かったり、峠越えを控えている場合に存在したようであるが、ここ菊川も牧の原台地や小夜の中山(本日これから越える)に挟まれていたため、旅人で賑わったようである。   

   写真は承久の乱で捕えられた藤原宗行、正中の変で捕えられた日野俊基が護送の際にここで詠んだ漢詩・和歌の碑である。

   

  

   間の宿菊川を過ぎるといよいよ2回目の丘陵越え、「小夜の中山越え」となる。この付近は道標がしっかりしているため、道に迷うことは殆どなさそうである。

   さてこの丘陵越えは多くの先達踏破者のHP等にも長くて大変との記述があり、それを予備知識として臨んだがやはり「大変」であった。何と言っても登り坂が延々と続く。しかも多くの場合(自分もそう)、既に牧の原台地越えをした足で登るので一層キツイわけだ。

   せめてもの救いは沿道の茶畑とミカンの木がこの土地らしい景観を演出してくれている点だろう。(右写真)  

   

   

   延々と続く登り坂の途中に阿仏尼の歌碑を見つけた。脇に現代語訳も併記されており親切な配慮と言える。

    雲かかる  さやの中山  越えぬとは   都に告げよ   有明の月
(雲のかかる小夜の中山を越えたと都の子供達に告げよ有明の月) 
                                                                                     阿仏尼

   このような歌碑をこれ以降にもいくつか見かけ、小夜の中山が古来から有名な峠越え(丘陵越え)であったことがわかる。

   

 

   登りに登ってようやく右の久延寺に着く。この寺は1600年に徳川家康が上杉攻めに東進した際、時の掛川城主山内一豊が茶をもてなした場所として知られている。また境内には「夜啼き石」伝説で知られる石もある。(かつては東海道の道の真ん中にあったものを移設)

   さてここには休憩施設があるので、持参の湿布「トクホン」を左膝に2枚貼り付ける。この時点で膝は痛くないのだが、箱根の急坂の経験で痛くなるとすればこの筋肉部とわかっており、痛くなってから貼ってもすぐに回復はしないので、用意周到なる予防と言ったところである。それっ、先を急ぐぞっ!  
 

   

 

   左手に西行の歌碑、小夜の中山公園を見ながら進むとやがて「左夜鹿一里塚跡」がある。ここは日本橋から56里目の一里塚跡であるが、先の金谷一里塚跡が53里目であり中間の2箇所が欠落している。この区間の一里塚は江戸期の資料にも記載がなく、実際にあったのか否かも不明とされている。

   実際のところ前の金谷一里塚跡から3里(約12キロ)も歩いてはおらず、ここを56里目とする江戸期の資料に何らかの錯誤があるのではないか?との説も有力である。

 

        

   

   道はなだらかな下り坂が続く。右の「涼み松広場」は芭蕉が

命なり  わずかの笠の  下涼み    

   と詠んだとされる松の大木があった場所を小公園として整備した休憩施設である。芭蕉が江戸から伊賀上野へ帰郷する折に詠んだ句で、夏の小夜の中山越えの暑さが伝わってくるようである。

       

  

    さらに下り坂は続く。登った分は下るのが当たり前だが、京から東への旅であれば先ほど自分が味わったような延々たる登り坂であり、さぞかしキツイ道であったことだろう。

   道の右手に日坂(にっさか)宿の錦絵をモチーフにした石碑があり、日坂宿近しを思わせる。

 
 

        

  

    沓掛の集落を過ぎ、ようやく小夜の中山越えが終わろうかという時、道はそれまでの普通の下り坂から突如急峻な下り坂となる。ここが「二の曲り」で、膝の抑速ブレーキを最大限に効かせて下る必要がある。

   それにしても今回の「トクホン」効果はてきめんで、昨秋の箱根こわめし坂の悲哀を再現することなく通過できてアリガタヤ。これも一種の旅慣れなのかも知れない。

       

  →次はやはり間違えた七曲りです。