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  update 2008. 3. 9    

踏 破 日 2008/3/2
コースタイム 14:00〜17:15
歩 行キロ 7.3q
累 計キロ 220.6q
踏 破 率 44.8%

 
やはり間違えた七曲り

沓掛・二の曲り〜JR掛川駅
 

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   二の曲りを下りきり、国道1号線の日坂バイバスをくぐると日坂(にっさか)宿への旧道が続いている。日坂は鉄道(東海道本線)敷設の際に近辺の急峻な地形上の理由によりルートから外れたこともあって全体的にひっそりした印象を受ける。

  もっともこの集落としては旧宿場町であったことを大きな財産と考えているようで、各戸の軒先に旧屋号や施設跡の名称を墨書きで大書してある点にその意気込みを感じることができる。

   

       

 

   旧日坂宿をしばらく歩いていると酒屋の看板に「清酒・東海道日坂」の看板を見つけたので撮ってみる。この時は気付かなかったのだが、この道の先にある木造2階建ての建物が当時の旅籠「萬屋」で、その手前に商家「藤分」の建物もある。いずれも近年の修復を受け、見学が可能である。(見学無料)

       

  

    旅籠「萬屋」を過ぎると今度は左手に写真の旅籠「川坂屋」が建っている。ここは同じ旅籠でも床の間付きの上段の間があったり当時禁制のヒノキ材が使われていたりするため、身分の高い武士や公家なども宿泊した格の高い旅籠であったと考えられている。

   ここも見学無料で大変有り難い。地元の人が自主的に管理運営している様子が伺える。

   さて道の右手に高札場跡を見て先に進むと国道に合流し、残念ながらしばらくは単調な行程となってしまう。

       

  

   日坂バイパスの八坂インターチェンジを過ぎると程なく歩道橋があり、その手前で旧道は左へ分岐している。そちらの道を少し行くと右手に「伊達塚一里塚跡」の碑が建っている。ここは日本橋から57里目の一里塚跡である。

  

   

       

  

   引き続き薄曇りの道を西へ西へと足を進めるが、次の掛川宿までは少々距離があるうえ沿道の史跡も乏しく単調な道中となってしまう。そんな中で国道1号線に(日本橋から)224.9Kmのキロポストと共に名古屋まで146Kmの案内板を見つける。名古屋の下に浜松34Km、袋井14Kmの記載もあり、中京圏を歩いていることを実感する。

  

 

       
 

   単調な道中と言っていたらもう次の一里塚である。(苦笑)

  ここは葛川一里塚跡、日本橋から58里目である。

 

   旧道は掛川宿めがけて西へ続くが、本日のゴールであるJR掛川駅に着く500メートルほど手前に「七曲り」(新町七曲り)という鍵状に複雑な折れ方をする道順がある。これは例により宿場入口を複雑な形状とすることにより、外敵の侵攻を防ぐ意味があると言われている。

    
    

   この「七曲り」は複雑な道順のため、事前に「先ず東伝寺という寺が左に見えたら左折」と調べておいた通りに東伝寺が視界左手に現れるのを歩きながら仔細にチェックする。しかし肝心の東伝寺が見つからない。次の路地こそは…を繰返しているうちに左手の先に見えたのはなんと本日のゴール掛川駅、うわっ、こりゃ大チョンボだ!

   落胆しながらも掛川駅前まで来ると駅を中心とした詳細な地図が掲示されており、これを頼りに気を取り直してそれらしき地点まで戻ってみる。するとあった、左折の標識が。写真右手のミラーが立つ下にこげ茶色の標識があるのだが、道を折れる左側に立ててもらわんと見落とすではないか、コレ!

       

 

   上記地点を左折すると件の東伝寺は少し奥まった目立たない場所にちゃんとあった。やれやれと思いながら左折・右折を繰返すとやがて右写真の「七曲り」の案内板に到達し、ようやく自分が辿った道が正しかったことがわかった。

   再び掛川駅に着いたのが17:15、先に到着した時が16:30だったのでなんと45分ものロスタイムである。もっともこれが12月頃であれば日の入りがもっと早いために戻っての再踏破は困難だったと思われ、その点は救いでもあった。

       

 

   【資料/新町七曲りの詳細地図】(平成20年3月現在)

   さて上述の通りここは非常にわかりにくい道順なので、曲がり角の目印となる建物を右に全て紹介する。これらは今後年月の経過により変化を生じる可能性もあるが、心あるかたはぜひ踏破時の参考として頂きたい。

  →次は宿場町より城下町?です。