update 2008. 3. 19
踏 破 日 | 2008/03/08 |
コースタイム | 11:55〜15:00 |
歩 行キロ | 7.8q |
累 計キロ | 231.9q |
踏 破 率 | 47.1% |
大池一里塚〜木原畷古戦場跡 |
(前の宿場町より城下町?へ戻る)
旧街道は掛川市街を離れ、沿道には松並木が目立つようになってくる。本日踏破した掛川・袋井周辺には近年植樹したものも含め松並木が多く存在しており、保存に対する地元の熱意が伝わってする。クルマの排気ガスや害虫によって枯れることが無いことを祈りたい。 さて道を進めると右手に「仲道寺」という寺がある。道脇に出ている看板によると江戸と京のちょうど真ん中にあるのでこの寺名とのこと。自分は江戸と京の中間地点を少し先の天竜川付近と考えていたが、実際に江戸や京のどの地点から測るかにもよるだろうし細かい詮索はヤボなのかも知れない。 |
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仲道寺を過ぎると松並木(原川松並木)が続く。道が舗装道路なのが残念なくらい両脇に松の木が連なっている。歩行者のための歩道は左脇に並走しているのだが、クルマが途絶えたチャンスに車道へ飛び出して(!)撮影する。
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ようやく松並木が終わると原川の集落となり、ここが間の宿・原川があったところとされる。掛川宿と袋井宿との距離は10キロ近くあるため、ちょうど中間地点のこの付近に間の宿があったことは十分頷ける。
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旧街道は原野谷川を渡り、掛川市から袋井市へ入る。川を渡ったたもとに「名栗の立場」跡の説明と袋井宿の地図があるのを見つける。 立場とは街道にある休憩所のことで、茶店なども有ったようである。ここ「名栗の立場」も近年休憩施設が設置されたので、一息入れるのには良いだろう。
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ここ袋井も引続き松並木が至る所に残っている。沿道には袋井市が特に力を入れたとわかるカラーの案内板が随所に立てられ、足を止めてその内容に見入るのも楽しい。 |
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さて久津部一里塚という日本橋から60里目の一里塚跡が袋井東小学校の入口脇にある。それは良いのだがここ袋井東小学校にはその名通りの看板のほかに「どまん中東小学校」の看板もデカデカと掛けてあって少々ビックリした。 実は「袋井=どまん中」を称するのにはちゃんとわけがあり、東海道五十三次の27番目の宿場(江戸・京のどちらから数えても)が袋井なのである。それにしても市立小学校が堂々と「どまん中」を標榜するということは、自治体からしてこの名称に乗り気なのかも知れない。 |
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旧街道は西南西の方角を取るようになり、午後の陽光が逆光となって撮影は相変わらず苦労の連続である。右写真のコンビニ「サークルK」があるところで国道1号線と僅かにかするが、すぐに左手の道をとる。少々わかりにくいので例により矢印を入れておく。
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ここは広重の錦絵にも描かれた天橋(あまばし)跡。後方には「どまん中茶屋」がある。 |
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袋井宿跡に入る。至る所にどまん中の表記は相変わらずなのだが、説明版やレプリカといった旧跡をアピールする物の出来栄えは良い。休憩施設もあちこちにあって踏破者の便宜がはかられている。 さてここは袋井宿東本陣跡である。この左脇に本陣についての説明版があり、内容が具体的で大変興味を持った。(→こちら)
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袋井宿の西の端である。(順光撮影がウレシイ) ここには高札場が再現されており、写真の右手側には休憩施設が整備されている。本気で袋井市が我が町を「宿場町」として売り出そうとしている姿勢が伝わってきた。 |
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袋井宿を去り、真西へ歩くと松橋という橋があるのでここを右に分岐する。(しないと一里塚を見逃すので要注意)
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分岐後ほどなくして木原一里塚に辿り着く。近年の再建であるが一里塚らしい雰囲気は出ている。 この一里塚、当時の大きさをなるべく忠実に再現してくれたのは有難いのだが、あまり道幅の広くない路地に設置されたこともあり写真撮影のための「引き」が足りない。かつて所持していた28mmレンズがあればなぁ〜。(35mmレンズで撮影)
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木原一里塚から少し行くと「許禰(こねじ)神社」という神社があるが、この付近が「木原畷古戦場跡」である。 この地は元亀三(1572)年の秋、上洛のため甲斐を立った武田信玄が木原に陣を張った際に、徳川家康の偵察隊と小競り合いを繰返した地とされている。両者はこの年末に本格的に衝突し(三方ヶ原の戦い)、家康が大敗している。
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→次はジュビロードは東海道です。