update 2008. 3. 24
踏 破 日 | 2008/03/16 |
コースタイム | 14:00〜17:40 |
歩 行キロ | 8.9q |
累 計キロ | 261.9q |
踏 破 率 | 53.2% |
成子交差点(浜松)〜JR舞阪駅 |
(前の決断!馬込一里塚跡探しへ戻る)
成子交差点を右折した旧街道は程なく次の菅原町交差点で斜め左に分岐する道をとる。交差点には右の子育て地蔵尊があるので目印としたい。
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舗装道でありながらのんびりした道を進むと遊歩道のような小公園があり、なんと小型の蒸気機関車が静態保存されていた。この遊歩道は「堀留ポッポ道」と呼ばれる旧国鉄浜松工場への引込線跡である。 さてこの蒸気機関車であるが、解説版によると大正7年に国産初期の軽便機関車として大日本軌道会社が製造し、東濃鉄道(岐阜県美濃太田〜多治見)を走っていたそうである。その後廃車となり国鉄浜松工場に静態保存されていたものである。 公園らしくベンチもあったので、しばし休憩する。 |
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旧街道は東海道本線(在来線)と東海道山陽新幹線をアンダークロスして南側へ出る。途中の歩道橋から新幹線にカメラを向けると、余命いくばくもない「500系のぞみ」が来た。防音壁がなんとも邪魔であるが取りあえず撮影、普段は滅多に使わない1/2000秒のシャッターを切った。 この先、少し歩いたら「かっぱ寿司」を発見、腹が減ったところに何とも有り難く早速入店する。
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「かっぱ寿司」を過ぎると一里塚跡が左手にある。ここは若林一里塚跡、日本橋から66里目の一里塚である。
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若林一里塚を過ぎると旧街道は緩やかに右へカーブを描くが、その先に2つの堂宇が道に相対して建っている。これは「二つ御堂(ふたつみどう)」と呼ばれるもので、堂の脇に縁起が記されている。 平安時代後期、平泉から京へ上洛した藤原秀衡(奥州藤原氏)が大病である旨を聞いた愛妾が京へ向かう折、この地で京からの飛脚によって秀衡没の知らせ(誤報)を知り、ここに阿弥陀堂を建て秀衡の菩提を弔ったと言う。そして後に病が治った秀衡が平泉への帰途にこの地を通った際、その話を聞いて愛妾への感謝の気持から道の反対側に薬師堂を建てたと言われている。 |
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(上・阿弥陀堂/下・薬師堂) | |
史実上、藤原秀衡が上洛した事実はないと考えられる(祖父の藤原清衡は文献に上洛の記述がある)。また堂宇創建が天治年間(1125年頃)のこととされており、これは秀衡が出生直後の元号であることからも上洛や愛妾とは結びつき難いと考えられる。 むしろ当時の奥州藤原氏は京の都との接触・情報収集等のために何らかの出先機関を設けていた可能性が高く、この言い伝えもその辺から脚色されて成立したのではないか?と自分は考えている。
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それにしても本日は暖かい。道の右側、「可美市民サービスセンター」に早咲きの桜が咲いている。 この付近は浜名郡可美村と称する村であったが、平成3年に浜松市と合併して自治体としての村は消滅した。しかし行政機関や学校などには“可美”の名前が今なお残っている。(ちなみに合併前の可美村は四方を浜松市に囲まれていた。)
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この付近はずっと道の右側の歩道を歩いていたのだが、ふと「洋品のワタナベ」という店先に東海道五十三次の手拭いが貼られているのを見つけた。だいぶ前、保土ヶ谷で買ったのと良く似ている。 店内でおかみさんから手拭い・タオルの両タイプがあることを教えられ、保土ヶ谷では手拭いだったので今回はタオルを買う。(400円だった。) 話によるとこの東海道手拭い・タオルを製作している業者が、複数の店で取りあえず店頭に置いてみてくれと頼んで販売しているとのこと。つまり各店のオリジナルではないわけで、道理で絵柄が良く似ているわけだ…。 |
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陽光が西に傾いてきた。逆光撮影もカメラフードに手のひらを更にかざす手法がだいぶ慣れてきた感じである。 県道257号が緩やかに左手へカーブしていくところ、旧街道は直進する。道幅は県道のほうが広いが、直線が続く旧街道こそが昔からの道であることを感じさせる分岐点である。
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上の分岐から500Mほど歩くと右手に一里塚跡がある。ここは篠原一里塚、日本橋から67里目である。 この一里塚跡の看板は個人邸の庭に立っており、看板自体は道に面しているものの目立たず見逃しやすいので注意したいところ。
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この付近は木製の常夜灯が非常に目立つ。しかもその殆どが電柱から電線を引いており、ちゃんと電灯がつく現役の常夜灯とあって少々驚きである。これも地元の人の熱意なのだろう。
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道はやがて松並木の道となるが、今回はここを右折してJR舞阪駅へ。次回改めて松並木脇を通ることとした。
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→次は今切の渡しと新居関所です。