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  update 2008. 3. 30

踏 破 日 2008/03/22
コースタイム 10:20〜11:40
歩 行キロ 6.9q
累 計キロ 268.8q
踏 破 率 54.6%

 
今切の渡しと新居関所

JR舞阪駅〜新居関所
 

(前の春を呼ぶ遠州灘の風へ戻る)

  

   本日のスタートはJR舞阪駅、例により初電で現地に参じるが、

   高田馬場 4:58 ― 5:21 品川
  
品川 5:29 ― 8:43 静岡 (右写真の電車)
   静岡 8:49 ― 10:04 浜松
   浜松 10:06 ― 10:16 舞阪

   なんと、いつの間にか片道5時間以上も要するようになり午前中の徒歩時間が取れなくなってきた。今や抜本的な列車変更を検討する時期にさしかかったようである。

  (↑由比で後続の特急を待避するため5分停車)   

  

    舞阪駅から先週のゴール地点の松並木へ。

   前回は夕暮れ時であったが、本日は午前中の陽光がきれいに注ぎ緑も濃く感じられる。この松並木は左手の歩道を歩くとわかるのだが、日本橋から京までの広重の錦絵が石版に順に刻まれて置かれており、今までに歩いた宿場町を順に思い起こすことができて楽しい。

 

     

 

    錦絵は日本橋から始まり、〜掛川・袋井・見付・浜松と続いて現在位置に近づいてきた。そして舞阪、ご当地とあって他の宿場町の石版よりもはるかに大きなものを使い、しかも解説入りである。石版は更に先の新居・浜須賀・二川と続く。

   今日はなんとか頑張って三州二川(愛知県豊橋市)に着きたいものである。  

     

  

    右写真は「見付石垣」で、ここからが舞阪宿である。見付とは宿場の端に設置された見張所のようなもので、人馬の出入りを管理していたとされる。

 

 

     
 

   舞阪宿も地元の旧宿場町に対する保存姿勢が良く、大きな案内看板もあって見学の一助となっている。→(案内看板)
(案内看板から戻る際はブラウザの「戻る」をクリック)

   さてここは舞阪一里塚跡、日本橋から68里目の一里塚である。写真は進行方向右手にあるもので近年建てられた石碑なのだが、垣根や松の植樹などで雰囲気を出そうとしている点はその心意気や良しとしたい。

    
    

   この舞阪一里塚は道の反対側にもあり、他に文化年間に造立された常夜灯も残されている。丁寧な解説板もあるので足を止めて見たいところである。

    

 

 

    

 

   沿道には海産物などを扱う店が目立ち、浜名湖近しを感じさせる。やがて道の先の視界が良くなってきて、実際に浜名湖が現れる。

   写真は前方に浜名湖、右手前に本陣跡(石碑が建っているところ)、左手に脇本陣(現存)がある位置である。

   実は旧東海道で脇本陣の遺構が現存するのはここ舞阪宿のみで、早速立ち寄ってみた。(入館料は無料)

   

    

 

   脇本陣とは本陣と旅籠(はたご)の中間的な位置付けの宿泊施設である。本陣は大名・公家・幕府役人等が利用、旅籠は一般宿泊客が利用した宿泊施設であるが、脇本陣は本陣の補助的な役割として普段は旅籠、大名の本陣利用がかちあった場合等には本陣として利用された宿泊施設である。実際に中に入ってみると確かに今まで見てきた旅籠に比べ格式ある造作が目立つ。

    

 

   ここは台所部分で、釜戸まわりがきれいに再現されている。この内容で入館料無料は何だか申し訳ない気分さえするが、是非末永く保存・展示を続けて欲しいものである。そんなわけでここはお勧めの街道ウォッチングポイントである。  

   

   

    

 

   脇本陣を出ると程なく浜名湖にさしかかる。護岸工事や海沿いの国道の整備によって昔の面影は偲ぶべくも無いが、北雁木という渡し場跡が残されている。

   当時、浜名湖は舟渡しであった。「今切(いまぎれ)の渡し」と言われた海上4里の渡しである。これを嫌う旅人(主に女性)が浜名湖の北を迂回する道程(姫街道)を採ったことは既に述べた。

   今回ここに差しかかり、徒歩・路線バス・浜名湖ボート(乗れるのか?)等のいずれの手段で渡るかを熟慮することとなった…。

   

    

 

   その結果、右のような渡りかたとなった。「熟慮どころが何も考えとらんだろ!?」と詰問されても仕方ないような安易な選択…だがこれこそは最も本日の残り時間を有効活用できる選択肢なのである。弁天島駅から乗ったJR東海の211系はダダンダダンと軽快に橋梁を渡り、旅人を新居町駅へと案内した。

  新居町駅に着くやドヤドヤと思ったより多くの降車客、殆どはオッサンであるが皆階段を上がって北側の出口(競艇口)へ。南口へ向かったのはなんと自分だけであった。

  

    

 

   新居町駅からは新居関所を目指して西へ。江戸時代は新居関所までが海路で、今自分が歩いている道はなかった。(明治以降に埋め立てられ現在のようになった。)

   途中の浜名橋で歩道の錦絵の数々を眺める。一般に東海道の錦絵は安藤(歌川)広重の保永堂版が有名だが、広重は他にも多くの東海道の錦絵を残しておりこれらも併せて鑑賞出来るようになっている。

  

    

 

   さていよいよ新居関所にさしかかった。ここは近年の復元が進み、渡船場も写真のように復元されている。

  

    

 

   新居関所は近隣の紀伊国屋(旅籠)との共通観覧券400円の設定があり、これを求める。関所の建物は箱根のそれよりやや簡素ではあるが、別棟の資料館も展示の内容が良いため払い損ということはない。敷地は広々としており、脇を東海道線と新幹線がひっきりなしに走り抜けているがこれは見なかったことにしよう。

   建物の中にも入れるので、靴を脱いで上がってみた。

  

    

 

   すると正座した蝋人形達が几帳面に出迎えてくれる。自分は「入り鉄砲・出女」のどちらでもないので穏便に願いまっせ…と腰を低くしたことでありました。(笑)

  【入り鉄砲に出女】
   関所では江戸に軍事的緊張をもたらす鉄砲の移入「入り鉄砲」と、各大名の妻(幕府への人質)が密かに国元へ帰る「出女」を特に厳しく取り締まったため、このように呼ばれた。

  

  →次は東海道最南端はひっそりです。