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  update 2008. 4. 5 

踏 破 日 2008/03/22
コースタイム 11:40〜14:45
歩 行キロ 7.7q
累 計キロ 276.5q
踏 破 率 56.2%

 
東海道最南端はひっそり

新居関所〜境川
 

(前の今切の渡しと新居関所へ戻る)

  

   新居関所を出て西へ。新居宿は関所よりも西にあったので、ここからが本当の宿場町と言える。その中でも右写真の旅籠「紀伊国屋」は先の関所と共通券で見学できるので有り難い。この旅籠は間口も広い上に奥行きのある建物で、部屋数も12と多い。

   建物自体は明治7年の大火で一旦消失したあとの再建なのだが、随所に江戸後期の旅籠建築様式が残されている。

      

       

  

    紀伊国屋を出ると旧街道は直角に折れて一旦南進する。その折れる突き当りが本陣(飯田武兵衛本陣)跡である。新居宿に本陣跡は何件かあるが、今はいずれも碑が残るのみである。

   

 

      

 

   しばらく南へ歩くと一里塚跡がある。ここは新居一里塚跡、日本橋から69里目である。写真で見てわかるとおり、小振りの石碑と案内板があるのみで、いわゆる一里塚の復元ではない。しかしプランタンの植込みがきれいに整えられていて、地元の人がこの史跡を大事に扱っているのが何とも嬉しく感じた。ある意味で「官」主導の宿場町アピールより良いのかもしれない。

   

      

  

    南進していた旧街道は新居宿を抜けると本来の西進となる。国道1号線と合流して少し歩くと275.8kmのキロポストがあり、この先の橋本西交差点を旧街道は斜め右へと入ってゆく。

 

 

      
 

   この道から直接遠州灘の海は見えないが近いことには間違いなく、やや風が強い。しかしその風はもう春風で、沿道の菜の花も今や盛りと咲き誇っていた。先の橋本西交差点から4キロほどはやや単調な道なので、このような風景はアクセントとして平成の旅人をなごませてくれる。

    
    

   そして白須賀元町一里塚跡、日本橋から70里目である。ここは高札立場跡の案内板と並べて建てられている。かつてはこの付近が白須賀宿だったのだが、宝永4年(1707)の地震と津波により宿場はほぼ全滅してしまい、翌年潮見坂上の現在地に移設された。

 
   この道中記の特色として、行程が単調な部分では一里塚跡紹介の間隔が
狭まる。新居からもう4キロ?という感じの記述であるが、実際にてくてくと歩いている。    

      

 

   旧街道はほぼ西(西南西)へと進み、潮見坂下にさしかかった。ここからは北進(北北西)に進路が変わる。この少し先からは愛知県となるが、更に北西の進路となるためこの地点が「東海道最南端の地」なのである。

   だが…最南端の地を示す標識らしきものは何も無い。それどころが町外れとあって付近は全くひっそりとしてる。もっとも旧東海道歩きがさらにポピュラーになれば何らかの標識等が立つかもしれない。

   【参考/白須賀宿の案内板】   

      

 

   さて、久しぶりに上り坂である。これが潮見坂、先にある白須賀宿からは下り坂の先に遠州灘が広がる光景となる。自分もある程度上ってから後ろを振り向いてみた。

   道の両側を木々が覆っているため少々コントラストの強い写真となってしまったが、昔の人も木立ちを抜けると目の前に広がる遠州灘を見渡したことであろう。

   

    (↑この写真は進行方向逆向きに撮影しています。)

 

   潮見坂を上り切ると小公園があり、遠州灘を一望できる。このアングルが広重の錦絵「白須賀」に似ているように見える。
    

      

 

   潮見坂を過ぎると旧白須賀宿にさしかかる。例により道が鍵状になる「曲尺手(かねんて)」が残されている。

   

   

      

 

   ここ白須賀宿は鉄道や国道から外れた位置にあり、また現在の県境地帯にあることからもかつて宿場町であったことが意外な程の静けさで、古い家並みと所々にある旧跡の案内板がかつて宿場町であったことを偲ばせる。

   この宿場跡で時刻は午後の2時となったが、コンビニの一軒も無く食糧調達が全く出来ない。このまま集落を出れば更に食事のチャンスは無くなりそうでマイッタ…。

  

  

      

 

   やがて白須賀宿を出ようかという付近に右写真の「火防樹のマキ」がある。この一帯は冬の西風が強く、マキの木は火災時の延焼に役立ったと言われる。(当時はもっと多く植えられていたようである。)

   

  

      

 

   道はやがて左側から来た車道と合流し、さらに歩くと国道1号線に合流する。その少し手前で境川という目立たない川を渡るのだが、この川名の“境”こそは遠江国(静岡県)と三河国(愛知県)との境を意味するのである。

   道中はついに愛知県に突入したわけだが、「伊豆・駿河・遠江」の三国からなる静岡県の東西に長かったこと…これが右写真を撮った時の率直な感想であった。

  

  →次は駆け足セーフの二川宿です。