トップページへ          平成の旧東海道を歩くへ  

  update 2008. 4. 6 

踏 破 日 2008/03/29
コースタイム 5:50〜9:50
歩 行キロ 9.1q
累 計キロ 291.3q
踏 破 率 59.2%

 
撮れていた一里塚跡

JR二川駅〜JR小坂井駅
 

(前の駆け足セーフの二川宿へ戻る)

 

   東京在住の者が愛知県内の旧東海道を効率良く歩くためには、なるべく午前中の徒歩時間を多く取りたい。そうなると論理必然的に夜行列車や夜行バスの出番となるわけだが、今回は右の列車を使った。

   夜行快速「ムーンライトながら」東京23:10 -  4:00豊橋 という、かなりの強行スケジュールである。目的の二川駅は豊橋の一つ手前なのだがこの列車は停まらないため、豊橋で上りの一番電車に乗って一駅だけ戻った。(豊橋 5:39 - 5:44 二川)  

   

    (↑豊橋駅に停車中のムーンライトながら)

  

   そんなわけで二川駅スタートは何と早朝の5時50分となり、過去のどの回よりも早い時刻である。朝焼けが駅舎を照らす中、さぁ今日も頑張るぞっ。早朝であることと寝不足のせいか少々肌寒く感じるが、そこは歩いてホットな体にしよう。

  二川宿は前回歩いたエリアで終わっているため、しばらくは単調な道が続く。土曜の早朝とあってクルマの交通量が少なめでありがたい。

   

     

    

   太陽が東の稜線からようやく上がってきた頃、伐採された松の切株が目に止まった。脇の碑文によるとこの付近には松並木が昭和40年代には100本も残っていたそうであるが、松食い虫の被害に遭って徐々に減少し、ついに最後の1本(この切株)が平成19年2月に伐採されたという。

   切株の大きさからも古木であったことは推測がつくが、この松は年輪から判断して幕末の安政年間頃のものとされる。

   

     

  

    時刻は6時半となり、道は国道1号線と合流。さすがにこの国道は毎度ながらクルマが多く、片側2車線でありながらもう渋滞気味である。

   さてこの付近の進行方向右側には日本橋から73里目の飯村(いむれ)一里塚跡があるはずで、例によりかなり探し回ったのだが見つからない。行ったり来たりして結局30分ほどタイムロスしてしまった。本日一発目の一里塚跡が見つからないとは幸先悪いが、泣く泣く一里塚があったとされる付近を撮影して先に進むことにした。

     
 

   帰宅後にこのHPをまとめるため資料を調査していると、飯村一里塚跡の碑は国道1号線との合流地点電柱脇にあるらしいことがわかった。(国道から見て進行方向右側と言うわけ)

   なに〜っ、電柱脇??
   そこで上の写真をアップしてみると、何と撮影したアングルの中にちゃんと写っている! 全く偶発的な産物“ケガの功名
である。碑文の「飯村一里塚跡」が国道の方を向いているため気付かなかったが、結果的に大変ラッキーだったと言える。

   

    
    

   進路が北西ということもあり、自分の右後方から陽が差す。今まで逆光の撮影に苦しんでいた行程からは信じられない光線状態で、写真撮影が大変楽である。

   先の飯村一里塚から2Km少々進むと豊橋の市街に入り、東八町の五叉路にさしかかる。ここからが旧吉田宿であると同時に旧吉田城下町となる。(明治の初めに豊橋と改称)

   旧城下町と来れば駿府・掛川等と同様、街道の道順が複雑に折れるのは毎度のことで、ここは注意が必要である。まずはこの歩道橋を上って先の道を俯瞰してみよう。 

    

    

 

   東八町の歩道橋を下りた場所が吉田宿東側の入口「東惣門跡」で、現在は復元レプリカが建てられている。

   ここからの道が非常にわかりにくい。紛らわしい分岐が多いので間違えないようにしたい。(上図参照)

    

 

   左右に折れながら歩いているとバス停「曲尺手」がある。さすがにここまで来るとあっさり読めるし意味もわかる。

   

    

 

   ここは上に作成した地図のC番の地点である。豊橋市内の旧東海道には「東海道」の標識が案外多めに立てられており、平成の旅人にとっては大変有り難い。ここからしばらくは西へ直進する。

    

 

   旧街道は国道259号線とクロスして程なく「吉田宿本陣跡」にさしかかる。吉田宿には2軒の本陣があり、脇本陣や旅籠も集まって宿場町の中心を成していた。

    

 

   旧街道は左に松葉公園が見えてきた交差点を右折、少し歩くと「西惣門跡」で復元された門とが東と同様に建っている。ここまでが旧吉田宿で、旧街道は緩やかな下り坂から豊川にさしかかる。

   

    

 

   豊川を渡る。この橋の名前が「豊橋(とよばし)」という名称で、明治2年に吉田が豊橋に改められたのはこの橋の名に因むと言われる。旧街道はこの橋を渡りすぐに左折し、北西に進む。

  

    

 

   しばらく左手に豊川の土手を見ながら進むと、右手に聖眼寺という寺があり、芭蕉の句碑が残されている。

 松葉を焚いて手ぬぐいあぶる寒さ哉  芭蕉

   字余りかな?と思わせる内容だが、この地方では松葉のことを「ご」と呼ぶためこの内容で良いらしい。芭蕉がこの地を訪れた際に、弟子のことを案じて詠んだ句とされる。

    

 

   下地一里塚跡、日本橋から74里目である。豊橋市内の一里塚跡はいずれも碑文が車道側に面しているため、撮影に一苦労である。ここでもクルマが切れるのを見計らい、ダッシュして撮影する。

   

    

 

   次の宿場町御油(ごゆ)まではかなり距離があり、その間にめぼしい史跡がない…と思ったら瓜郷(うりごう)遺跡の看板に出くわした。右折して120M先とあるので寄り道してみる。

   瓜郷遺跡は弥生時代中〜後期の遺跡で、国指定の史跡として平地式切妻の住居が復元・整備されている。来訪時は周囲の桜が咲いており、一番良い季節に訪れたような感じだった。

    

 

   旧街道に戻り引き続き北西の進路となる。やがて豊橋市から小坂井町に入り、豊川放水路を渡る。この橋は歩道がないうえにクルマの交通量が多いので歩行には注意が必要である。

   左に小坂井バイパスの分岐をみて直進すると、やがてJR飯田線の踏切にさしかかる。写真左手には小坂井駅がある。

  この時点でまだ10時前なのだが、もうかなり歩いた気がするのはおそらく早起きのせいだろうな…。

   →次は御油の松並木よ末長くです。