update 2008. 5. 5
踏 破 日 | 2008/05/03 |
コースタイム | 7:15〜9:40 |
歩 行キロ | 7.0q |
累 計キロ | 313.0q |
踏 破 率 | 63.6% |
名電山中駅〜大平一里塚 |
(前の旧街道は名鉄に密着へ戻る)
平成20年もゴールデンウィークが到来し、この「平成の旧東海道を歩く」も2年目に入った。全行程に於けるここまでの踏破率はまずまずなのだが、来訪地が自宅(都区内)から遠くなる一方でスケジューリングが苦しくなってきた感は否めない。頑張りどころである。 さて前回終了地点の名電山中駅は実に中途半端な位置にあり、どうやって現地へ(朝早く)到着するか悩んだが、今回は夜行高速バスで岡崎まで行くことにした。早朝の5時着と寝不足ダイヤだが、GWの道路混雑とやらで岡崎(JR岡崎駅)には75分延の6時15分に着いた。結果として少し多く車内で眠れたことを良しとしよう。 |
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↑東京駅八重洲南口のバスターミナルにて | |
JR岡崎駅からは愛知環状鉄道と名鉄を乗り継いで名電山中駅へ。今回は曇天のスタートであるが、少し歩き始めると小雨に見舞われた。しかし当方も昨晩東京が雨天だったため透明傘を持参しており、これでなんとか凌ぐ。中京地区の天気予報「曇りのち晴れ」を信じてしばらくは辛抱の道中となる。 写真はスタートして10分程度のところにある休憩施設。明らかに旧街道を歩く人の便宜をはかった設備でありがたい。
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国道1号線と合流した旧街道は左に山中八幡、右に名鉄の車庫を見ながら西へ進む。やがて国道1号線は名鉄をオーバークロスするため右へ緩く曲がっていくが、旧街道はここを直進して藤川宿へと向かう。すると程なく右下写真の“従是西 藤川宿”の標識「棒鼻」が建っている。ここは藤川宿の東棒鼻跡である。 雨はやんでくれてまずはホッとする。 |
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広重の絵と比べると、どことなく看板の形まで当時のものと似せているように見える。
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右写真ではこの「棒鼻」の地点から道は緩く右へカーブしているが、つられて行ってはいけない。宿場町の入口を鍵状に曲げる「かねんて」が例に漏れずこの宿場町にも設けられており、写真左の道を直進してその後右折・左折をすることにより元の道に合流するのが正しい道順である。
藤川宿「かねんて」の解説看板は→こちら
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「かねんて」の鍵状の道を過ぎると真っ直ぐな道となる。ここ旧藤川宿の集落は宿場町であったことをアピールしており、観光客向けの駐車場や休憩スペースの設置が目につく。国道を外れていることもあり、古い家並みも残っている。 右は脇本陣跡にある「藤川宿資料館」である。無人の資料館で入場無料なのだが、残念ながら開館は9時からで自分が来訪した時はまだ8時過ぎ…止む無く写真だけ撮って先へ進む。
敷地にある案内板は→こちら |
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やがて進行方向右手にこれも復元された西棒鼻跡があり、ここまでが藤川宿であったことがわかる。
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西棒鼻跡から200Mほど歩くと左手の民家前に藤川一里塚跡の看板がある(日本橋から79里目)が、 石碑や榎の植樹はない。
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旧街道はやがて名鉄の踏切を渡り松並木にさしかかるが、その手前で左へ分岐する道がある。これは三河湾方面への「吉良道」で、かつて参勤交代や助郷勤めの出役・海産物の搬入路として重要な役割を果たした道であった。今は分岐点に石碑が建っている。
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松並木を過ぎると国道1号線と合流、曇天から晴天に変わり日差しが強く感じられるようになってきた。そして旧街道は美合新町北交差点の手前、写真の地点で左に分岐する。
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道は乙川という川を渡る…が橋がないため、右に平行する1号線の橋を止む無く渡る。写真の松の木が旧街道であることを証すが如く立っている。 |
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乙川を渡った旧街道は国道1号線を斜めにクロスして今度は北側へ出る。しばらく歩くと西大平藩陣屋跡(大岡越前守陣屋跡)が右手にある。大岡越前守忠相は「大岡裁き」で有名な町奉行で、当初は旗本であったが8代将軍徳川吉宗の意もあって後に1万石に加増されて大名となり、この西大平藩の初代藩主となった。
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さて西大平藩陣屋跡から道を進めると大平一里塚跡にさしかかる。進行方向左手のみ塚が現存するが、盛土の上に榎が茂る様子からは当時が偲ばれ国史跡に指定されている。ここは日本橋から80里目の一里塚である。 |
→次は二十七曲りは巡ったが…です。