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  update 2008. 5. 12 

踏 破 日 2008/05/04
コースタイム 11:05〜12:30
歩 行キロ 4.1q
累 計キロ 337.6q
踏 破 率 68.6%

 
我、…勝てり!

境橋〜桶狭間古戦場跡
 

(前の勘と経験で一里塚探しへ戻る)

   

   旧街道は尾張国(愛知県豊明市)へ入った。またも国道1号線に合流、道に掲出されている看板に大津・四日市といった地名が出てきた。このまま行けばやがて「京都」まで何キロと書かれた看板に出会うだろうが、その時にはゴールを初めて意識するのかも知れない。

   

    

  

   少し先の分岐を見越して進行方向左手の歩道に渡ると、程なく右手に名鉄特急がダダダと名古屋方面に走り去って行った。吉田宿(豊橋)から旧街道にぴったり絡む様子はいずれ思い出になるだろう。

  

     

 

   そして旧街道は左へ分岐、程なく阿野一里塚跡にさしかかる。ここは日本橋から86里目の一里塚である。一里塚跡の形状としては道の両側に残っている本来の姿であり、国史跡に指定されている。(後補であるが榎が両側の塚とも植えられている。)

    

     

  

   名鉄の前後駅に併設のアピタで飲料を補給し西進、旧街道はまたまた国道1号線と合流し、中京競馬場前駅の手前で名鉄をアンダークロスする。


     
 

   そして遂に平成の旅人は「桶狭間古戦場跡」にさしかかった!

   「桶狭間の合戦(桶狭間の戦い)」、およそ日本人であれば今さらこの合戦を説明する必要があるのかと思えるほどの日本史上特筆すべき合戦であることは言を待たない。いわんや地歴ファンがこの地を来訪すれば必然的に鼻息が荒くなるのは自明の理である。

   そんなわけで旧東海道散策が本旨とは言え、写真一枚で終わらせるには余りにもったいない史跡が眼前に出現したので、特に本稿で解説を加えさせて頂くこととする。

    

   

   「桶狭間の合戦」は永禄三(1560)年、織田信長が駿河国から上洛を目指す今川義元をこの桶狭間の地で破った合戦である。義元はこの地で落命、以後今川氏は衰退の一途を辿り、これに対して織田信長は天下統一の野望へと本格的に踏み出すことになる。

   合戦については“寡よく衆を制す”(少数の軍で大軍を破る)好例として古くから信長の奇襲戦法が言い伝えられているが、近年の研究では実は正面攻撃で結果的に奇襲だった等の新説も見られ興味は尽きない。他にもこの合戦には諸説あるのだが、一応今回は従来からの通説である奇襲戦法について触れ、併せて史跡の案内としたい。

    公園の入口/史蹟桶狭間古戦場の石碑がある

 

   今川義元が上洛のため大軍を率い西上を始めたことを知った織田信長は籠城止む無しと主張する重臣の言に耳を貸さず、5月15日早朝に突如僅かの兵と共に出陣する。

   熱田神宮で戦勝祈願した織田軍は遅参した自軍を整える。この間に今川軍先鋒の猛攻を受けた丸根、鷲津の両砦は陥落、義元の本隊はじりじりと西進を続け、やがて桶狭間で小休止する。義元の軍勢は陣中で酒宴を開き、上洛の前祝のような感じであったと言う。

   そんな中、一天にわかに掻き曇り豪雨となった。

  

    

  

   この時、織田信長の軍勢は今川の軍勢を見下ろす太子ケ根の小高い丘まで軍勢を進めていた。豪雨に慌てている今川陣中を眼下に見据えた信長は「我、…勝てり!」と確信した。

   「狙うは義元の首のみ!」織田軍は豪雨の音に紛れ一気に今川軍の本陣めがけて突撃した。その騒がしさに初めは自軍の喧嘩程度に考えていた本陣の今川義元だったが織田軍の急襲と知り慌てて馬に乗ろうとする。しかしそこに織田軍の先鋒隊である服部小平太・毛利新助が乱入して義元の首級をあげるに至ったのが顛末である。

   日本史に於ける新しい扉が開かれた一瞬であった。

  ↑今川義元の墓

 

   この古戦場跡に隣接した高徳院には「今川義元公本陣跡」の石碑が建つ。この寺院の背後は小高い丘陵となっており、史実的な断定はできないが織田信長の「我、…勝てり!」とオーバーラップさせることが可能である。

   なお桶狭間古戦場についてはここから2キロ程離れた名古屋市緑区にも同様の古戦場公園がある。この合戦の史実として決定的な説がないためそちらも古戦場とされるが、背後に山がある当地(今回紹介の地)の方が雰囲気的には適しているかもしれない。  

  →次は宿場町顔負けの有松です。