update 2008. 5. 18
踏 破 日 | 2008/05/04 |
コースタイム | 13:10〜16:10 |
歩 行キロ | 8.0q |
累 計キロ | 347.0q |
踏 破 率 | 70.5% |
鎌研橋〜宮の渡し公園 |
(前の宿場町顔負けの有松へ戻る)
有松を去り住宅地のなかを旧街道は鳴海宿へと向かう。名鉄左京山駅の近くで「SHOP99」(99円ショップ)を見つけたので、オニギリ2個とお茶を買い、旧街道脇にあるベンチで食う。 やがて道は古くからある商店街の雰囲気と成り、この一帯が鳴海宿のあった場所とわかる。ただ宿場町のイメージとしてはつい先程の有松のインパクトが強過ぎて、鳴海のほうが霞んでしまうような感じである。それでも旧家(右写真)が有ったり、寺院が街道脇に点在するなど、それらしき痕跡は残っている。
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名鉄鳴海駅の少し先にある作町交差点を右折し、進路を北へ取るようになると鳴海宿は終わりとなるが、その先に常夜灯(右写真)がある。これは丹下町常夜灯と呼ばれ、寛政四(1792)年に建てられた石塔である。旅人や宿場内の人々の安全を祈念し、併せて宿場の火防を秋葉神社に祈願したシンボルとされている。
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旧街道は鳴海から笠寺方面へと三王山交差点を渡る。名古屋市内らしくマンションなどのビルが目立ってきた。この先、天白橋を渡る手前のベンチでしばし休憩、2日連続の行程でだいぶ足が疲れてきた。
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疲れた足を休憩でしばし癒し、再び歩き出す。本日は疲れていようがいまいが宮の渡し公園まで絶対に到達しなければならないので、気持ちを振り絞って足を進める。 やがて右写真の笠寺一里塚にさしかかる。ここは日本橋から88番目の一里塚で、榎の大木が枝を広げている。この榎は少し前まではかなり傷んでいたそうだが、名古屋市が平成6年に200万円掛けて幹にあいた穴を塞ぐ等の修復を行い今に至っている。
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笠寺一里塚から500Mほど歩くと笠寺観音(笠覆寺・りゅうふくじ)がある。笠寺は宿場町ではないが、この寺を中心とした門前町として栄えたようである。 太鼓橋を渡り境内に入り、道中安全を祈願すると共にまたもベンチで少々休憩する。足にマメができたようで痛むが、今回は普段のスニーカーと違う靴にしたせいかも知れない。う〜ん迂闊であった…。
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旧街道は笠寺商店街を通り抜ける。(シャッターを閉めている店が多いのは連休のせいだろうか?)名鉄の踏切を渡ったあとは右に折れる。
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名鉄の踏切を渡った旧街道は再び住宅街の中を北へ進む。この道のあたりから平成の旅人(旧東海道踏破)と思われるウォーカー達が自分の前後に何組か現れ、休憩や碑文の見学の折に追い越したり追い越されたりする現象が見られるようになる。旧東海道踏破の行程は各自の都合で組むにせよ、今回の宮の渡しについては午後から夕方にかけて到着する行程が組まれやすいことを考えれば、同好の輩が前後に目立つようになるのは自然なことかもしれない。 右写真は熊野三社で、石造の碑文が意気込みを感じさせる。 |
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山崎川にかかる山崎橋を渡るといよいよ都会・名古屋に入った感が深まる。高速道路の大きな高架、歩道橋を張り巡らした交差点、大きなビル群、いずれも旧街道の雰囲気とはかけ離れた現代的な光景である。 そんな中で名鉄常滑線のガードをくぐった先に右写真の伝馬町一里塚が残っている。ここは日本橋から89番目の一里塚で、愛知県下最後の一里塚である。比較的枝振りの大きい榎が高層ビルの谷間でここが一里塚であることを必死に主張しているかのようであった。 |
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いよいよ行程はフィナーレを迎える…が、その「宮の渡し公園」に入る手前にあるこの道標を見落とすわけには行かない。看板の解説にもあるが、ここは佐屋街道への分岐点であり道標が建てられてる。 佐屋街道とは東海道の脇街道で、桑名への「七里の渡し」(舟旅)を嫌う旅人が使った陸路の迂回路である。少し前の今切(浜名湖)の渡しを嫌った旅人が使った姫街道と同様の趣旨と考えて良いだろう。 |
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そして平成の旅人は遂に「宮の渡し公園」に到達した。ここは宮宿として宿場町かつ熱田神宮の門前町として大変栄えた場所である。 江戸時代にはここから「七里の渡し」として約27kmの舟旅で桑名へ渡ったのであるが、現在は名古屋港の埋め立てにより海岸がかなり先の方へ移り、ここは単なる川の合流地点といった感じでる。それでも近年は公園として整備され、常夜灯や時の鐘が当時の雰囲気を醸し出しており、平成の旅人はここでしばらく感慨に耽った。
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→次は名四国道で七里の渡しです。