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  update 2008. 10. 27

踏 破 日 2008/10/12
コースタイム 9:15〜13:00
歩 行キロ 7.0q
累 計キロ 398.6q
踏 破 率 81.0%

 
蒲冠者の史跡に感慨

日永の追分〜石薬師一里塚
 

(前のお伊勢参りと分岐へ戻る)

   

    日永の追分を発ち、近鉄内部線の踏切を渡る。相変わらず小振りな電車がせっせと走っている。

   この踏切を渡ってすぐ左手の道が旧東海道である。

   

    

  

   旧街道は四日市市でも南部の小古曽地区を南西に進む。途中でやや紛らわしい道順があるが、右写真のように案内板がある(但し見落とす可能性アリ)のでそれに従いたい。

   近鉄内部駅を左手に見てさらに直進するとやがて内部川に差し掛かり、同時に左に平行する国道1号線をまたいで南側の道へ出る必要がある。しかしこの部分は国道を横切ることが交通量の点から殆ど不可能であり、ここは国道をアンダークロスする歩道&階段を使うのがベストである。そして右下写真の「Max Valu」脇を左へ入る道順が取れれば“正解”である。

     

     

   

   旧街道は再び静かな道となる。しばらく歩くと「うつべ町かど博物館」(無料/水・土・日・祝の9〜12時開館)があり、内部地区の歴史を知ることができる。

   更に道を折れると「杖衝坂」にさしかかるが、ここは三重県に入ってから初めての本格的な坂道である。


     
 

   坂の途中には「史蹟・杖衝坂」の碑がある。この坂の名の由来は、かつて日本武尊が東征から大和への帰途に病になり、腰の剣を杖にして坂を登った故事にちなむ。

   日本武尊はこの坂で「我が足三重の勾りなして甚しく疲れたり」と言い、この地を三重と名付けたとのことである。

   坂を登り切った所には日本武尊を祀る神社「血塚社」がある。  

   

    

  

   血塚社を過ぎると程なく国道1号線に再合流する。すると程なく写真右の「采女一里塚」跡が国道の進行方向右手にある。ここは日本橋から101里目の一里塚である。

   この一里塚は歩いてきた道と反対側の歩道にあり、要は国道1号線を渡らなければならない。しかも旧街道はしばらくして左に分岐するため再度横断して戻る必要がある。しかしこの付近には例により横断歩道がなく、今回は止むを得ずクルマが切れるのを待ち横断を強行した…が、2度はやりたくないというのが率直な感想である。

  

    

   

   采女一里塚を撮影後再び国道を渡り左側の歩道を歩く。すると写真の「東京から403Km」のキロポストに出会った。国道のキロ数と旧街道のそれが必ずしもマッチしないことは以前にも述べたが、それでも遂に400キロ台に到達したことは感慨深い。(約8割踏破となる。)

    

    

   さてしばらく国道1号線と絡むように旧道を歩いていると右写真の「石薬師町北交差点」に出る。ここも横断には地下歩道があるのでそれを使いたい。(写真は横断後のバス停付近からの撮影)

   だいぶ歩いてノドが乾いたので、道路脇の大型スーパーでアクエリアスのペットボトルを買ったら一飲みでなくなってしまった。

    

    

   さて石薬師宿である。ここは宿場の南にある石薬師寺の門前町であるが、宿場町としては東海道の宿場の中でも小規模な部類で、本陣三軒・旅籠十五軒、宿場全体でも総家数二四一件しかなかったようである。

   なおこの石薬師の地は明治の歌人佐佐木信綱を生んだ地としても知られ、沿道の至る所に彼の歌を記した案内板が見受けられる。

    

   

   この道は国道から少し離れた位置にあるため、旧街道らしい雰囲気はまずまずである。右写真は旧宿場のほぼ中心と思われる小澤本陣跡があった場所で、今も格子戸の風情に満ちた建物がある。ところが来訪時は衆議院の解散風が吹いていたため、某政党の何とも無粋なポスターが貼られておりガクッ、こりゃ参ったね!

   小澤本陣の案内板はこちら
  (戻る際はブラウザの戻るボタンで戻って下さい。)

    

    

    小澤本陣から更に進むと右手に佐佐木信綱資料館と彼の生家がある。(写真は生家)

   自分は明治の歌壇については浅学極まりないため考察を加えられないのが何とも残念だが、この石薬師地区が佐佐木信綱および彼の歌を大事にしている雰囲気は実に良く伝わってくる。

    

  

   やがて宿場町の南端に差し掛かり、道は瑠璃光(るりこう)橋を渡る。この下は国道1号線で、渡った先の左手には宿場町の名称となった石薬師寺がある。

    

    

   石薬師寺を右に見て少し進むと右へ折れる道があり、御曹子社という神社があるので寄ってみよう。この神社は源頼朝の異母弟である源範頼を祀る神社である。彼は遠江国蒲御厨(かばのみくりや)で生まれたため蒲冠者(かばのかじゃ)とも呼ばれている。

   自分がこの神社に興味を持った理由は、同じ源頼朝の弟でも義経に関する史跡の多さに比べ範頼の史跡は極めて少ないことによる。社伝によれば彼は武術と学問の神様(天神様みたいだナ)として祀られているが、また同時にこの神社には性格温厚と言われながら最後は無実の罪で暗殺された彼を供養する意味も有るのかも知れない。

    

  

    さらに上の御曹子社から60mほど離れた場所には「蒲桜」という桜が植えられている。これは範頼が木曽義仲・平家征伐に上洛する際にこの地で戦勝祈願を行い、鞭として使っていた桜の枝を逆さに差したところそのまま根付いたという伝説の桜である。また植物学的にもヤマザクラの一変種として大変珍しいそうである。   

  <吾妻鏡/壽永三年正月廿日 >
   蒲冠者範頼・源九郎義経等、武衛(頼朝)の御使として数萬騎を率して入洛す。(中略) 範頼、勢多(瀬田)より参洛す。

   (なお、範頼の上洛は美濃を経由し伊勢は非経由との説もあり。)

    

     

   旧街道に戻り南下すると程なくJR関西本線が近づき、川の土手に上がると「石薬師一里塚」跡がある。ここは日本橋から102里目の一里塚である。

   ここには12時半過ぎに到着、背景に関西本線の列車を入れて撮影しないといけないな…と思いカメラを構えたが肝心の列車が来ない。実はこの区間には1時間に1本程度しか列車が来ないダイヤで、無常にも時間は過ぎていく。そしてようやく列車が来たのは13時、なんと30分ものタイムロスである。果たして今日は亀山に着けるのか?

  →次は小走りで井田川駅着です。