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  update 2008. 11. 6

踏 破 日 2008/10/16
コースタイム 9:50〜11:35
歩 行キロ 4.1q
累 計キロ 413.1q
踏 破 率 83.9%

 
運良く来た単行DC

亀山宿京口門跡〜関宿東の追分
 

(前の屋号札が出迎え、亀山宿へ戻る)

 

    亀山宿を出た旧街道は野村一里塚にさしかかる。ここは日本橋から105里目の一里塚である。道の右側のみではあるが、先の和田一里塚同様に盛土上に植樹された一里塚としての状態を残す(ここは椋の木)貴重な遺跡である。なお大正3年までは左側の塚も有ったと伝えられ、その取り壊しが惜しまれる。

   一里塚の遺構はこれから先に現存するものは少なくなり、京が近づくにつれ痕跡すら残らず看板や石碑も無いらしい。もっとも日本橋側でもその点は同様だったので、これは大都市部で遺跡を残す難しさの現われなのかも知れない。

    

 

    野村一里塚を過ぎると布気地区に入る。なんとこの付近で自分のスニーカー底面のゴム皮が一部剥落しかけた状態となり、歩くたびにその部分を引きずり落ち着かない。そこでいずれ剥がれるならと思い自分で上手く剥いで歩きやすくなった…のだが、そんなことをしているうちに右写真の右折部分を見過ごし直進してしまった。

   そのため本来であれば布気神社(右下写真)が進行方向左手に来るところ、右手に神社の境内らしい林が続いてさすがに変だと気づき戻った次第。ここは目立たない分岐点なので要注意である。

     

 

   さて本来の道に戻り、左手に布気神社(正しくは布気皇舘大神社)を見る。緑深い境内を持つ神社で、式内社にも記載のある由緒ある神社である。

   

     
 

    亀山宿と次の関宿とのほぼ中間地点となり関西本線(JR西日本)を跨ぐ。ここで例により列車を待つのだが、この線区は1時間に1本程度のローカルダイヤである。前回の石薬師一里塚で30分ロスしたことが頭をよぎったが、今回は運良く10分ほどで来てくれた。

   単線非電化のレールをたった1両のディーゼルカーが走るこの線区はおよそ“本線”とは名ばかりの輸送形態だが、地方では自家用車が移動手段として常用される現在ではやむを得まい。時代の推移と共に「徒歩→鉄道→クルマ」と変遷した移動手段三態を撮影者自身とその被写体で偶然にも表現できた形となった。(苦笑)

    
 

   上述の関西本線を跨ぐ陸橋を過ぎると道は真っ直ぐな道となる。ここは大岡寺畷(たいこうじなわて)という道で、江戸時代は松並木であったそうだが現在は桜の木が植えられている。

   やがて大岡寺畷は東名阪自動車道のガード下をくぐるが、このガード下に三重県内の東海道宿場町の案内が広重の浮世絵と共に大きく表示されており興味深い。(右写真・反対側にも表示あり)  

   

    
 

   旧街道はこのガード下からしばし鈴鹿川を左手に見ながら進むことになる。少し離れた右手には国道1号線と関西本線が並走しているが、そちらを見ずに進行方向左側の景観を眺めながら歩くと旧街道らしい雰囲気が少なからず感じられる。

   

   

    
 

   やがて鈴鹿川と離れると大岡寺畷は終わり、関西本線と国道1号線を渡ると関宿が近づいてくる。写真のように右手に「関宿」の看板が見えるため、道順としてはわかりやすい。看板の裏には休憩施設があり、ここで少々休憩する。

   なお写真中央の樹木は鈴鹿馬子唄にも出てくる父の仇討ちで有名な小万(仇討ち時18才の少女)にちなむ史跡「小万のもたれ松」である。  この場所は、仇討ちの武術修行のため亀山通いをしていた小万が地元の若者の戯れを避けるために、身を隠すためにもたれた松があった場所とされる。

    
 

   右上写真の地点で国道1号線と分岐すると旧街道は静かな道となり、関宿の東入口にあたる「関宿東の追分」にさしかかる。追分の名の通りここは伊勢別街道への分岐点でもある。写真の大鳥居はこの地点から伊勢神宮を遥拝するために建てられたものである。

   

    

    

   さて、この関宿東の追分付近には関一里塚があるはずなのだがまたも見つからず、道を戻っても見つからない。結局再度東の追分に戻ると大鳥居の後方の石垣上に発見できた。手持ちの資料(地図)では進行方向右側に表示されているが、実際に大鳥居と一里塚跡があるのは左側であり、この点は再三再四恨めしい限りである…。

関一里塚跡

(日本橋から
106里目)

  →次は関宿は宿場町の真髄です。