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  update 2009. 1.28

踏 破 日 2009/01/03
コースタイム 8:00〜11:30
歩 行キロ 7.1q
累 計キロ 422.0q
踏 破 率 85.8%

 
雨雪霙霰の鈴鹿越え

関宿西の追分〜鈴鹿峠
 

(前の関宿は宿場町の真髄へ戻る)

  

   2008年12月31日、現地の天気予報「曇り」を信じて平成の旅人は早朝のJR関駅に降り立った…が、一つ前の亀山駅出発時から降り始めた雪は関駅到着時には横なぐりの風雪となっていた。下界の駅でこの有様では鈴鹿峠の荒天は推して知るべし、泣く泣くこの日の峠越えを諦めたのであった。

   それから3日後の2009年1月3日、場所は再び早朝の関駅。もう引き下がれない再挑戦決行だが、天気予報は今回も「曇り」である。  

    

 

   その関駅に降り立つと雨天でガックリ。しかし程なく止んできれいな朝焼けの空となった。しかし夕焼けとは異なり朝焼けは天候が悪化する予兆と何かで聞いた覚えがあり、いやなことを思い出すものだと苦笑しながら前回終着地の「関宿西の追分」へと向かう。確かに前方の鈴鹿方面には雲が垂れ込めており、この先の天候は油断ならないところである。

   「関宿西の追分」近くのコンビニ(サークルK)で軽い朝食を取り、さぁスタート。この時点で降雨・降雪はないが、非常に寒い。  

 

    

  

  「関宿西の追分」から国道1号線脇をしばらく歩いていると鈴鹿峠の天候を暗示する表示を見つけ少々ビビる。下写真の石はその道脇にある「転び石」で、何度道脇に片付けても街道に飛び出るという伝説のある不思議な石である。(今はおとなしく鎮座している) 

     

 

   旧街道は国道1号線と絡みながらも脇道を取る部分が多く、いずれの場所も落ち着いた雰囲気を醸し出している。

(写真は1号線と分岐した先にある西願寺と常夜灯)

     
 

   西願寺から10分ほど歩くと右手に山が見えるが、この山は「筆捨山(ふですてやま)」と呼ばれている。設置の案内板によれば、室町時代の絵師狩野元信がこの山を描いて翌日さらに描き足そうとしたところ、雲や霧が出て成すことができず筆を投げ捨てて諦めた故事が山の名前の由来だそうである。

  まぁ自分が見る限りは何の変哲も無い山なのだが、天候の変化の話はやはり気になってしまった。空は降雨のまさに一歩手前という感じである。  

    
 

   さぁてそろそろ本日一発目の一里塚跡が近づいてきたな…と思い道の左側を注視していると、旧道が右手の沓掛集落へ分岐する少し手前にあった。ここは市ノ瀬一里塚、日本橋から107里目の一里塚跡である。

   旧街道は国道1号線と別れ、沓掛集落への道を取る。

   

    

 

    沓掛集落は宿場町ではないが古い家並みが続いており、旧街道らしい雰囲気である。ややひっそりした印象を受けるのは正月休みだからであろう。

   この写真の付近まで来た頃、とうとう降り出した。慌てて軒先に避難すると屋根に当たる雨音がザーでなくシャーと聞こえ、これが雨ではなく霙(みぞれ)であることがわかる。これより以降は小降りを見計らっての移動/軒先避難の繰り返しとなり、写真撮影も難しくなってしまった。   

    
 

   沓掛集落を出て1Kmほど進むと「鈴鹿馬子唄会館」にさしかかる。ここには鈴鹿馬子唄や鈴鹿峠の歴史文化についての展示があるが、残念ながら年末年始は休館である。その会館脇に東海道五十三次の宿場を順に記した碑が立っており、今までに通過した宿場町の思い出がふと頭をよぎった。

「坂は照る照る鈴鹿は曇る  あいの土山雨が降る  (後略)」

  鈴鹿馬子唄の冒頭部を抜粋したが、唄に反して坂(坂下宿)の時点で既にみぞれまみれである…。 

    

 

   馬子唄会館から程なく往時の坂下(さかのした)宿の中心にさしかかる。この付近は道端の至る所に本陣跡その他の石碑が立っているが、いずれも今は民家や茶畑と化しており当時の面影はない。

   

    

    

    そんな中で旧街道右手にある法安寺という寺に寄ってみよう。右写真はこの寺の庫裏であるが、何やら(庫裏にしては)立派な玄関である。そのわけはこの建物が上写真の「松屋本陣」の玄関を移築したものだからで、数少ない当時の遺構として貴重と言える。

 

 

 

  

    
 

   坂下宿跡を過ぎるといよいよ鈴鹿峠越えが近づいてくる。街道右手にある「身代地蔵」に道中安全を祈願するが、天候はどうにも冴えない。時折冷たい雨・霙(みぞれ)に遭い身をかがめて先を急ぐ。

   この先の「岩屋観音」で突如バラバラと降ってきたので慌てて境内の軒下に隠れるとカバンの溝に小粒の玉状の氷が溜まっており、これが霰(あられ)であることがわかる。雨・霙・霰とくれば残りは雪しかなく、おそらく鈴鹿峠は雪だろうな・・・といよいよ覚悟を決める。

   
 

   ところで岩屋観音の先には一里塚跡があるとのガイドブックの案内を信じて例により探すが、例により無い。旧街道から右手に分岐する東海自然歩道も念の為歩いたが見つからず、結局この時は諦めた。帰宅後に調べると一里塚跡は存在せず、概ねこの辺に有ったとの内容であった。(それなら地図に載せるなよ疲れるから・・・)

   さて悪天候のため写真撮影の間隔が空いてしまい、いつしか登坂の最中である。予想通り天気は雪となるも、この期に及んではいくら濡れようと突き進むのみで後戻りは出来ない。頭に雪が降りかかるが、むしろ足元がぬかるみに取られないよう注意を払って登った。   

   
 

   三重・滋賀の県境の手前で見晴らしの良い場所があったので今まで登ってきたところを振り返るように1枚撮影する。好天であれば更に良い写真が撮れたと思われるが本日は止むを得まい。

  

   

  

   
 

   さて林の中を歩くような感覚で鈴鹿峠を登って来たが、ようやく道の先が平坦になる場所にさしかかり、ここが「峠」であることがわかる。坂のキツさと言う点では箱根や小夜の中山のほうが明らかに大変であったが、今回は低温・降雪の中を登ったためそれ相応にしんどかったと言えよう。

  鈴鹿峠の現地案内板はこちら→  クリック
  (戻る際はブラウザの戻るボタンで戻って下さい)

   

   
 

   鈴鹿峠の滋賀県(近江国)側は視界が開け茶畑が広がるが、本日はすっぽりと雪に覆われている。下写真は県境(旧国境)を示す石碑で、滋賀県に入ったことがわかる。
   

 

 

   
 

   峠から茶畑を見ながら少し歩くと右の大きな石灯籠に出くわす。これは「万人講大石灯籠」という今から270年前に建てられた高さ5.5mもある常夜灯で、当時から峠を越える旅人の目印となっていたことであろう。

  この石灯籠から旧街道は道を下って国道一号線と合流する。

   

   →次は現代の立場茶屋「道の駅」です。