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  update 2009. 3. 23

踏 破 日 2009/01/04
コースタイム 11:00〜13:15
歩 行キロ 5.7q
累 計キロ 446.4q
踏 破 率 90.7%

 
北脇縄手の長さに驚く

三筋の広場〜JR三雲駅
 

(前の道は三分岐そして再合流へ戻る)

 

   近江鉄道を渡った旧東海道は程なく右折する。この付近は左右に折れる箇所が多いが、これは街道筋を曲折させて水口城下の防備としたためである。過去にも駿府・掛川・岡崎等で同種の道を通ったことが思い出される。

  この部分の曲がり始めは少々わかりにくいので、左手に「湖東信用金庫」が見えたら右折しよう。

   

    
 

    右写真の「力石(ちからいし)」から先はしばらく直進となる。この石は江戸末期の浮世絵師歌川国芳が作品に取り上げた石とあるが、残念ながら歌川国芳についての知識が無くイメージが湧かない。と言うよりもこの力石、既出の「ころびいし」等と比して話題になるほど大きくないような気もするが、どうかな?

    
 

   さて、真っ直ぐになった道の右に真徳寺という小さな寺がある。写真はその表門であるが、予備知識なしに「これは寺の門?」と感じた方はなかなかの史跡研究通である。

   実はこの寺の山門は水口城下の武家屋敷の門を移築したもので、元々寺院用に建てられた門ではない。山号の掲額や流麗な欄間彫刻のない、質素を本位とする武家屋敷らしさが残る門と言えようか。

  

    
 

    そろそろ水口宿エリアも終わりに近づいてきた。その西の端に五十鈴神社があり、正面左手に一里塚跡がある。ここは林口一里塚(甲賀市水口町東林口)、日本橋から113里目の一里塚跡である。

   碑文によれば当初は今よりも南に有ったが、水口城の郭内整備のため東海道が北側に付け替えられた際にここへ移設されたようである。  
    

    
 

   五十鈴神社を出て左折・すぐに右折をすると「北脇縄手」と呼ばれる長い直線の道になる。縄手(畷)は今までの道中にも何度か登場しているが、主に田の中を通る長い直線道のことを指す。

  それにしてもこの道の直線は今なお見事に残されており、2キロ近く先の道路信号さえハッキリわかる程で、これには驚いた。高低差が無く交通量も少ない点はあろうが、北海道を別にすればこれほど視認性の良い道も珍しいと思われる。

   

    
 

   延々と続く北脇縄手を歩いていると道祖神とお地蔵さんを右手に見つけた。我が道中、なにとぞご加護あれ。

   さてそろそろ次の一里塚が近づいてきたが、道なりに緩やかに右手へ向かう方へうっかり行くと間違えるので要注意。具体的には下地図のように泉川という小川を舞込橋で渡るようにする。すると程なく道の右手に一里塚が現れる。ここは泉一里塚、日本橋から114里目の一里塚跡である。 

    
 

    現在の泉一里塚は近年復元されたものである。(右写真)

   
 

    泉一里塚を過ぎると旧街道は野洲川にさしかかる。すると大きな石灯籠(常夜灯)が目にはいり、ここが「横田の渡し」であったことがわかる。当時の旅人は野洲川を舟で渡ったが、昼夜を問わず通行量が多かったため目印としてこの石灯籠が建てられたそうである。

   「横田の渡し」は明治になり架橋されたが、国道1号線の開通以降はその橋も無くなってしまった。よってこの部分は現在では国道1号線を迂回しなければ対岸へは行けない。 

   「横田の渡し」解説板のアップは→こちら
(戻る際はブラウザの「戻る」ボタンで戻って下さい。)

   
 

    明治期の橋はここから架けられており、対岸を見るとJR草津線が走っているのがわかる。

   なおこの電車撮影のためにまたも30分待ち…もう今日中に次の石部宿まで歩くのは殆ど困難となってしまった。 

 

   
 

    渡るべき旧街道が無いため止む無く国道1号線を経由、そこから分岐する橋で野洲川を渡る。すると程なくJR草津線の三雲駅に出るので、そこから少し東寄りに戻ってみると常夜灯が残されている。先に紹介したものよりは小振りだが、旅人の往来が昼夜を問わず盛んであったことが伺える。

   さて、今回(2009年初頭)の道中はこれで終わりだが、踏破キロが遂に全体の90%に到達した。はるばるここまで来た達成感と、もう僅かしか楽しめないのかという寂寥感が複雑に入り混じった。 

   →次は天井川の土手を登るです。