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  update 2009. 4. 11

踏 破 日 2009/03/15
コースタイム 11:20〜15:00
歩 行キロ 11.0q
累 計キロ 466.0q
踏 破 率 94.7%

 
再訪ありや草津追分

石部一里塚〜草津追分
 

(前の石部宿場の里を訪れるへ戻る)

 

   「石部宿場の里」から旧街道に戻り、西を目指す。石部宿エリアが殆ど終わりになる付近に近年整備された休憩所(右写真)があるが、ここはかつて西縄手と呼ばれ長い松並木が有ったという。

   この少し先から東海道はJR草津線に沿った道と、南方へ大きく迂回する道とに分かれる。しかし平成の旅人は肝心の分岐点を見逃したためJR草津線に沿った道を歩き、先を急いだ。

    
 

    旧街道は湖南市から栗東市へ入り、やがて正午のサイレンが鳴る。伊勢落地区の集落はのどかで、進行方向右手をJR草津線が並走している。(伊勢落とは何やらいわくありげな地名だな…)

    
 

    道の右手に見つけた薬師堂。ここに栗太八景のひとつ「上野夜雨」の漢詩を刻んだ石碑を見つけた。国内で何々八景として選ばれる風景では近江八景が有名だが、ここ栗東でも江戸時代に栗太八景が選ばれている。

   ちなみにこの付近ではその後何度かの景観選びが行なわれたようで、最新のものは平成元年に選ばれた「栗東八景」のようである。

   

  

    
 

    さらに足を進めると、旧街道は間の宿として栄えた六地蔵地区に入った。すると旧街道左手に風格ある建物が見えてくるが、これは旧和中散本舗と呼ばれる薬屋で、道中の薬を売っていた豪商の建物である。かつて徳川家康が腹痛を起こした時にここの薬で治ったという話が伝わっている。

   なおこの建物は国の重要文化財に指定されているが、現在も人が住んでいるため勝手に内部には入れない。  
    

    
 

    右は六地蔵一里塚である。ここは日本橋から117里目の一里塚跡で、平成18年3月竣工の新しい石碑が建っている。

   実はここに石碑が有るとは来訪時まで知らなかった。手持ちの資料には近年の設置が反映されておらず、先達諸氏のHPにも設置されている旨のコメントがみつからなかったためである。よってこの発見は大変嬉しく、最終的には旧東海道全ての一里塚跡に何らかの復元を望みたいところである。

    六地蔵一里塚脇の石板案内はこちら

    
 

    旧街道は手原エリアにさしかかった。古い土蔵風の建物に風情を感じる一方で、庭先に蒸気機関車の動輪(ボックス動輪)が置かれている家が有り不思議な気分になるなどして時刻は13時になった。

  

 

    
 

    う〜ん、それにしても腹が減った。昼食を食いたくも沿道にはコンビニの一軒すら無い。少し先の手原駅前あたりに何か無いかなと淡い期待を寄せる。

   右の写真は手原駅近くの稲荷神社で、明治天皇が東幸の際に休憩を取った場所とされる。地名にちなんだらしい石のベンチを見つけたので、ここで弁当でも食えたらいいなと思う。

 

   
 

   そしてJR手原駅にさしかかった。駅舎は近代的で瀟洒なイメージで、駅前ロータリーも整備されているが、なんと供食事情に関する限り「0点」の駅周辺でガッカリ。こんな時は空腹感が一層つのるものである。

   

  

   
 

    この付近での昼食を諦め、道を進める。旧家なのだろうか、白壁の家々が道の両側に並ぶ様は格式あるたたずまいである。

   

 

   
 

    旧街道は西進から南西に進路を変える。すると道の左手に小公園があり、「九代将軍 足利義尚公 鈎(まがり)の陣所ゆかりの地」の大きな石碑を見つけた。応仁の乱を境として室町幕府の権勢は揺らぎ、ここ近江の地でも六角氏が将軍の直轄領を横領する事態が勃発した。そのため将軍義尚はここに討伐の陣を置き、戦の長期化に伴い政務の御所も併せてここに設けたとされる。 

   この石碑の周囲をあれこれ調べていると自転車に乗った地元の青年らしき人から「史跡研究ですか」と声を掛けられ、日本橋から旧東海道を歩いている旨を話したら驚かれてしまった。

   
 

    右は善性寺という寺院である。この寺の江戸後期の住職恵教は植物学者としても知られ、そのためオランダ医学者であるシーボルトがこの寺を訪れたという故事がある。

   
 

    道の行く手に旧草津川の土手が見えてきた。ここを右折する。この川はまたも天井川で、もう少し歩くと橋で跨ぐことになる。

   

   
 

    やがて目川一里塚跡にさしかかる。ここは日本橋から118里目の一里塚である。この付近には田楽発祥の地(左)/いせや(茶店)跡(右)の碑も建てられている。時刻は14時を過ぎて、空腹感が一層増してくる。

    

   
 

    旧街道は国道1号線をクロスする。すると国道脇に回転寿司屋を見つけたので思わず飛び込む。ところが普段安い回転寿司ばかり食っている平成の旅人にとってこの店の標準価格は一皿270〜350円と恐ろしく高いことに入店後気付いた。かろうじて100円台の皿を5皿ばかり選んで食べてほうほうのていで店を飛び出したわけだが、まるで現代版の弥次喜多的なこぼれ話としてご容赦あれ。

   そして天井川である旧草津川を渡る。この草津川は現在では枯れ川で、広い川幅のみが往時を偲ばせる。 

   
 

    旧草津川の土手を渡るとしばらく古い町並みが続く。道はまもなく草津宿エリアにさしかかる。

   この草津宿は東海道と共に中仙道の宿場でもある。つまり日本橋を出発点とする東海道と中仙道はここで合流するわけである。 

 

   
 

    そしてこの交差点こそが「草津追分」で、東海道と中仙道との分岐点である。手前が今来た東海道、右手が中仙道、左手が京の都である。なお以前にもコメントしたが、追分とは道の分岐点を意味する。

    はたしてこの草津追分の地を再訪することがあるだろうか?  旧東海道も未踏破なので大きな事は言えないが、もし写真の右手からこの地に到達した際には格別の感慨に耽るのかも知れない。 

   
 

    この草津追分の地には石灯籠や石碑が建ち、旧街道の合流点らしさを演出している。ちなみに左の石灯籠には「左 中仙道美のぢ(美濃路)」「右東海道いせみち(伊勢道)」と刻まれている。

  

   →次は草津宿史跡を巡るです。