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  update 2009. 4.14

踏 破 日 2009/03/16
コースタイム 8:40〜9:30
歩 行キロ 2.4q
累 計キロ 473.4q
踏 破 率 96.2%

 
明日は瀬田の唐橋に…

大萱一里塚〜瀬田の唐橋
 

(前の草津宿史跡を巡るへ戻る)

 

   右写真は宿泊先の「アーバンホテル草津」から見た旧草津川である。左手から東海道線の電車がやってきたが、この川(天井川)の下をトンネルでくぐるところである。

   本日も晴れ、平成の旅人にとっては2日連続の好天となり非常に有難い。

    
 

    草津の宿泊先からJRに乗り瀬田駅で下車する。本日は月曜であるが通勤通学の一段落した時間帯となり、旧街道はのんびりした雰囲気である。この瀬田近辺は比較的左折・右折が続くものの、先にも触れたように大津市内には地図入りの史跡看板が多く大変助かる。

  右写真は瀬田小学校近くの左折地点で、平安末期の歌人西行法師の住んでいた屋敷跡とされる場所である。西行は奥州藤原氏等と同じ“秀郷流藤原氏”の血筋で、出家の謎や最晩年の平泉行脚など単なる歌人の枠を超えて歴史的関心を呼ぶ人物である…が、これらについては機会を改めて取り上げることが出来ればと思う。

    
 

   旧街道はわかりやすい分岐を続けるが、右写真の地点付近はやや紛らわしいので例により矢印を入れてみる。右折して程なく右手に浄光寺という寺の門が見えれば正解である。

   

  

    
 

    旧街道は琵琶湖から流れ出る瀬田川へと向かう。交通量のやや多い道へ出たのちに写真正面奥の神領交差点を右へ行くのだが、真っ直ぐ行って右折ではなく、いったん左側の小路に進んでから右折して行くのが旧街道の道筋なので注意したい。

  
    

    
 

   そして旧街道は瀬田川にかかる「瀬田の唐橋」にさしかかった。欄干の擬宝珠が由緒ある橋らしさを演出しているが、この橋は古くから広義での京の都への入口とされ、東国からの旅人はここを渡る際にある種の感慨を持って渡ったと言われる。また安藤広重の近江八景に取り上げられている名勝の地でもある。

   他方でこの橋は古来より軍事的要衝でもあり、壬申の乱・承久の乱から本能寺の変まで非常に多くの戦に登場している。さらには俵藤太(藤原秀郷)のムカデ退治の故事にも登場する。これらの解説は橋のたもと(右下写真)にある看板の裏側に詳述されている。

    
 

   そんなわけで多くの歴史上の為政者・武将・文化人等がこの「瀬田の唐橋」に現れているわけだが、平成の旅人は敢えてここに登場しなかった歴史上の有名人に思いを馳せる。彼は死の直前に、

明日は瀬田の唐橋にわが軍旗を立てよ。」

   と重臣に言い残して亡くなった。

 

    
 

   上の言葉の主は戦国大名武田信玄である。元亀四(1573)年、上洛の志半ばに陣中で病没する際に重臣の山県昌景へ発せられた言葉で、「瀬田の唐橋を制する者が京の都を制する」と強く意識していたことが伺える。

   自分がこの橋を知ったのは、その昔に武田信玄についての書物を読んだためで、それ以来関心のある歴史スポットとなっていた。

   現在の瀬田の唐橋はクルマの交通量が多くやや興醒めだが、北を望むと琵琶湖と背後の山々が広がっていく様子を眺めることができる。

  →次は寺院の休館日に落胆です。