update 2009. 4.17
踏 破 日 | 2009/03/16 |
コースタイム | 11:15〜13:35 |
歩 行キロ | 8.5q |
累 計キロ | 487.0q |
踏 破 率 | 99.0% |
義仲寺〜JR山科駅 |
(前の寺院の休館日に落胆へ戻る)
義仲寺を過ぎ京阪線をクロスすると石場一里塚(日本橋から122里目)が当時は有ったが残念ながら現存しない。かわりに沿道のお地蔵さんが旅人を「応援」してくれた。 |
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旧街道の両脇にはすだれ店や製茶店が並び、また視界の正面には東山の峰々が迫ってきて京近しを感じさせる。
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さらに進むと左に「此附近露国皇太子遭難之地」の碑が建つ。これは明治に起こった大津事件の碑である。 大津事件とは明治二十四(1891)年に日本来訪中のロシア皇太子ニコライを警備中の巡査津田三蔵が斬りつけた事件で、ニコライは負傷した。日本政府は対ロシア外交の観点から津田を死刑にしようとしたが、大審院(現在の最高裁判所)院長児島惟謙は無期徒刑として司法の独立をはかった点が注目される。この点の法解釈を下記に記すが、興味の無い方は飛ばしてもらって構わない。(法務を職業とする身として解説したい部分であり、特に取り上げる。) |
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政府は旧刑法116条(大逆罪)を適用しようと考えた。条文の構成要件を見ると、「危害」とあり殺人はもちろん傷害も含まれる。しかも既遂・未遂とも同罪となる。したがってこの条文を適用する限り、被告人の死刑は免れない。 大審院の児島惟謙はこの大逆罪が日本の皇室に適用されるもので外国の皇太子には適用されないと考えた。刑法に於ける類推解釈は罪刑法定主義の観点から慎むべきであり、この判断は頷ける。そして彼は通常の殺人罪にあたる旧刑法292条(謀殺罪)を適用のうえ、その未遂で刑1等の減軽、つまり292条+112条で無期徒刑の結論を導き出したわけである。 なお司法の独立という点では事件担当でない児島が事件担当裁判官を説得したことが個々の裁判官の独立という観点からはかなり問題視されたが、より大きな法益(三権分立)を守るための緊急避難的な行動と解することが可能と思われる。
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<参考条文>
旧刑法116条
(大逆罪)
旧刑法292条 (謀殺罪)
旧刑法112条 (未遂)
<罪刑法定主義>
何が罰せられ、どのような刑が課されるかは予め成文の法律 |
さてさて旧街道を歩く本旨から大きく外れたので話を戻そう。 旧街道はやがて札の辻交差点に差し掛かりここを左折する。この道は国道161号線で、京阪京津線が路面電車のように道路の中央をのし歩くように走っている。 |
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大津本陣跡(下写真)付近で京阪京津線は右にそれて上栄町駅に停まる。ここから暫くは上り坂が続く行程で、いわゆる「逢坂山越え」となる。
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坂の途中に蝉丸神社がある。創建の由緒は不明だが、平安中期の歌人・琵琶法師の蝉丸が逢坂山に住んでいたことがそのいわれとされ、境内には歌人の石碑がいくつかある。(写真は在原業平のもの)
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旧街道(国道161号線)は左手からの国道1号線と合流し、交通量が格段に増えた。京阪京津線も左脇を走るようになる。正面上方の橋梁は名神高速道路である。 なお写真正面にやや小さいがキロポストがあり、日本橋から486キロの地点であることがわかる。486キロ…本当にここまで歩き通したのだなぁ、もうあと少しだ!
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坂道を登り切ると右手に「逢坂山関址」の石碑がある。逢坂山関とは古代・中世における関所で、現在は道そのものが掘り下げられているので当時の正確な位置は不明とされる。 平成の旅人がここを通った際は旧街道の休憩施設が新設工事中であった。やがては後続の旅人に役立つスポットとなるのだろう。
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道は下り坂となった。国道1号線の交通量は非常に多く風情に欠けるが、その道の左側に月心寺という寺院がある。その門は寺と言うより料亭のそれに近いが、ここが江戸時代の走井茶屋の跡であり、今では懐石料理のもてなしがある点を踏まえれば違和感もさほど無い。また、旅人の喉を潤した当時からの井戸(走井の名水)も現存する。 この寺については帰りの電車の時間の関係で境内に入ることなく飛ばしてしまったので、補遺で取り上げてみたい。
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旧街道は坂を下りきり、名神高速道路をアンダークロスしてJR山科駅方面へ向かう。素人考えで京都府に入ったと思うもまだぎりぎり滋賀県で、右写真のような当時の道標と現代の行政区割の標識が並んでいるのが面白い。
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やがて旧街道は歩道橋で国道1号線から北側へ抜ける道となり、右写真の矢印付近から西進する。そして国道の標識にようやく見つけた「京都府/京都市」の掲示、山城国(京都府)である。なお、旧街道の京都市入りはもう少し先で、赤矢印を暫く歩くと看板がある。
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→次は最終回・京の都に桜花舞うです。