1章(8)



「どうかね、予備校の仕事は」
「あ、はい。大変ですがやりがいがあります。
 心理学の授業を受けていて良かったです」
「お父様、良平さんは生徒にも人気がありますのよ。
 親身になって相談してくださると評判なんです」
「そういえば、館蔵君は私の講演を聴いた事があると言っていましたな。
 何度か質問を受けたことがあるのを憶えておるよ。
 君のような真面目な人物なら、なんの心配もいらないな」
 夕食に招待され、雅の両親とともに食卓についている。
 雅と一緒に彼女の家に着くと、久しぶりに時間が取れた彼女の父が家に帰っていた。
 学長である彼女の父は多忙で、夕食を一緒にとることは稀だといっていた。
「今日は新しい料理に挑戦しましたのよ。
 たくさん召し上がってくださいね」
 彼女の母は料理研究家で、料理教室を開いている。
 そのせいか、自分で夕食などを作っているそうだ。
「あ、ありがとうございます」
 さっそく俺は目の前に出された新作料理に手をつけた。
「美味しいです。美味しいですよ」
「ありがとう、うふふ」
 そう言って優しく微笑む雅の母。その微笑みは見ている人を幸せにする感じがする。
 こんな人が作る料理なのだから不味いはずがない。
「雅ももう少し、お料理ができると良いのですけど……」
「あら、お母様。私だって料理は人並み以上にできますわ。
 私が下手なのではなく、お母様が特別なのですわ」
 俺もそう思う。雅に以前、弁当を作ってもらったがそこらの市販のより美味しかった。
 ただそれ以上に彼女の母が美味しいのだ。料理研究家で料理教室を開いているだけはある。
「どうかね、館蔵君。食事の後に一つ」
「良いですよ。私でよればお相手します」
 そう言うと、雅の父は嬉しそうに頷いた。
 付き合うことになった当初こそいろいろあったが、今は気に入られたのか時間があるときはチェスをしている。
 偶然チェスをネット対戦をしていたを話したら、チェスをやろうということになったのだ。
 ネットではそれなりに勝っていたのだが、これがなかなか雅の父は強く対戦成績は2勝4敗と負けている。
 毎回接戦とはいえ、さすがに負け越していると悔しいものがある。今日は勝ちたいぞ。


 う〜ん、まだお腹が重い。少し食べ過ぎたかな。
 帰るのが遅くなったのはあれだけど、提出するレポートは完成してるから問題ないな。

コンコン……

 ん? あの叩き方は綾だな。
「綾、入ってもいいぞ」
 カチャッとドアが開いて入ってきたのは、やはり綾だった。
『お兄ちゃん、宿題を教えて欲しいんだけど』
 綾が宿題を持って俺のところへトコトコとやってくる。
「何の宿題だ? 数学か?」
 俺の言葉に頷く綾。
 う〜ん、数学は得意ではないが可愛い綾の頼みだ。
「どこの問題だ?」
『ここ』
 綾はそういって宿題のプリントを差し出す。
 自分で何度か解こうとしたようで、何度も消しゴムで消した後が残っていた。
 三角関数ならなんとかわかるぞ。どれどれ……。
「ここはこうしてこうして、こういう感じで解いていくと答えがこうなる。
 たぶん、ここの部分で詰まったんだと思うけど使いするとこうなって……」
 俺は机にあったレポート用紙に解き方を書いてやった。
『なるほど……』
「図で見るとわかりやすいだろ?
 つまりここからこれを引いてるのではなく、あくまでsinの対象の角度がこうだから……」
『ありがとう、お兄ちゃん。解き方わかったよ』
「じゃあ、今度は自分で解いてみな。
 わからなかったらこの紙を見て良いから」
『うん』
 俺は綾に席を譲りベッドに腰掛ける。綾は問題を見ながら自分の力で問いていく。
 こういうのは解き方を憶えるのが良い。
 解き方の手順を身につけることが数学を説く上で重要になる。
 たとえば数値を変えて問題を解いてみるのも良い。
 手順さえ憶えれば、あとは応用でなんとかなるものだ。
 って、同じようなことを塾でも話したような気がするな。
「どうだ、できたか?」
『うん』
「他にわからないところは、あるのか?」
『これだけだよ』
「そうか、あまり遅くまで勉強してるんじゃないぞ。
 明日起きれなくなるからな」
『うん……』
 綾は頷くと自分の部屋に戻ろうとしたが、俺の方を振り返って何か言いたそうにする。
「ん? まだ何かあるのか?」
『お兄ちゃん……今日は買い物に付き合ってくれてありがとう。
 お兄ちゃんのおかげで欲しいものが手に入ったよ』
「ん、そうか」
『綾、とっても嬉しかったよ』
 綾はそういうと部屋を出て行った。
「嬉しかった…か」
 俺はその言葉を聴いて頬をかいた。綾のためとはいえ、少し恥ずかしい。
 昔は綾のことを疎ましく思ったいたんだが、自分がこんな風に変わるとは思わなかったな。
 すべてはあの事件から、変わったんだよな。




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