「それでは、こちらのお色はいかがでしょうか」 つやつやと磨き込まれた板間に、所狭しと並べられた反物たち。先ほどからその中のひとつを興味深く手にとって吟味していた若い客人に、その隣にあるいくらか色味を抑えた品を勧めてみた。 「え、……でも。これじゃあ少し地味じゃないかしら?」 わかりやすく眉をひそめる反応もこちらとしては想定内。だからそれをあえて気にする必要もない。 「左様にございますか。では一度、今までにお選びになったものをすべて鏡の前で当ててみていただけますか? その中から特にお気に召すものを絞り込みましょう」 年若い女子であるから、やはり明るい華やかな色合いを好まれるようだ。選び出された布地もすべて春の野に咲き乱れる可憐な花のよう。 「そうね、そろそろ決めなければ。ああ、この中から一枚だけを選ぶなんてできるかしら。幾枚も一度に新調することができれば、本当に良いのだけど……!」 ここに店を構えてから半月ほどになるが、この女子は今日初めて見る顔であった。初めて足を踏み入れた店内に何もかもが物珍しい様子で、しばらくはきょろきょろと棚の品々を眺めるばかりだったが、そのうちにあれもこれもと手に取りだした。聞けば、一月後にこの先の社で春祭りがあり、そのために新しい衣を作ることを許されたのだという。 「ねえ、知ってる? 春の祭りは出会いの場所なの。毎年、あそこで縁づいて夫婦になる者がたくさんいるのよ。私の姉様もそうやって隣村に嫁いでいったの。だから今年はどうしても気合いを入れてかかりたくて」 無邪気に笑うその肩に、また新しい一枚を掛けていく。今年の流行である、明るい菜の花色。品物だけを見ればとても華やかであるのに、この客の顔色にはどうも合わない。 「あら、これも良くないわね。……本当に難しいわあ。私、こんな風に自分で衣を選ぶのは生まれて初めてなのよ」 もともとが華やかな顔立ちで肌も生き生きとしているので、なまじ明るい色目と合わせると互いが喧嘩してしまうのだ。このような場合は、一見落ち着きすぎている色を思い切って選んだ方が上手くいく。 「そうですね、……ではこちらはいかがでしょう?」 私は先ほど提案した一枚を、さりげなく広げてみる。すると目の前の鏡には、今までになく華やいだお客様の笑顔が映った。 「まあ、驚いた! 素晴らしいわ、今までで一番顔が明るく見えるわ。こんなことってあるのねえ……」 客人はとても感心した様子で何度も頷きながら、手にした何枚かをせわしく比べている。しかし幾度同じことを繰り返したところで、結果は変わらない。私は無駄な口を挟むことなく、その姿を一歩下がった場所で静かに見守っていた。 「でもぉ……、やっぱりこちらの明るい色の方が素敵だわ。祭りに大勢が集まっていても、ひときわ人目を引くような気がするもの。裾の花模様もとても綺麗だし」 やはりどうしても、自分の好みの色が気になるご様子だ。そのお気持ちもよくわかる。特別に仕立てる新しい一枚であれば、自分の心がたっぷり満たされる最高の品でなければならないはずだ。いくら以前に比べればいくらか安価になったとはいえ、新品の衣は庶民にとっては贅沢品。おいそれと手に入るものではないだけに、あきらめきれないのであろう。 ―― さあ、それではそろそろ「奥の手」を出しますか。ここからが私の腕の見せどころになるわ。 「ではお客様、このようにしてはいかがでしょう。お顔の周りだけ先ほどの少し押さえた色味にして、そのほかをこちらの明るいお色に染め上げましょう。今からすぐに手配すれば地染めから絵付け、仕立てまでを済ませても半月ほどであがって参ります。来月のお祭りには十分間に合いますよ」 すると、客人の顔にはみるみるうちに困惑の色が浮かぶ。 「そんな……、特注の品なんて贅沢なこと、私には無理だわ。きっと追加の料金がたくさんかかるのでしょう?」 私はそんな彼女の姿を姉のような眼差しで見守りながら、ゆっくりと説明した。 「いいえ、こちらに置いてある品はもともとすべてが職人の手作業による一点物ばかりにございますから、どちらをお選びになってもお値段は変わりません。もちろん追加の料金などいただきませんから、どうぞご心配なく。ただ、納期までにお時間をちょうだいしますので、その点はご了承くださいませ」 お客様が十分に納得されたことを確認してから、私は静かにそろばんをはじく。 「―― これくらいで、いかがでしょうか?」 刹那、驚きと喜びに満ちあふれた眼差しが私に向けられる。口元には微笑みを絶やさずに、私はホッと胸をなで下ろしていた。
「やあ、麻未。今回もお手柄だったな」 上機嫌の客人を店先まで見送って戻ると、いつの間にかそこには散らかった板間をせっせと片付けている男の姿があった。 「あら、お帰りなさい。戻っていたなら、表まで出てくれば良かったのに」 すると彼は、小さく頭を横に振って言う。 「いやいや、女子の話に口を挟むのは良くないからね。そうか、村祭りか。そういう話になれば、この先まだまだ客足が増えそうだな。あらかじめその旨を工房の方へ伝えておいた方が良さそうだ」 こんな狭い場所で商いをするなんて絶対に無理だと思っていた。でも、実際に始めてみると不便に感じるところなどどこにもない。ここを訪れる客人たちは、そのほとんどが自分に一番似合う特注の品を手に入れることができる。中には仕立て済みの完成品をそのまま求める者もいたが、それはほんの一握りだった。 「ええ、きっと先ほどの方はこれから方々で宣伝してくれると思うわ。今日お受けした注文もできるだけ早くに手配して仕立ててもらいましょう。工房の品物は確かなのだから、その仕上がりを見ればますます注文が殺到するに違いないわ」 ここ、岡谷は今まで暮らしてきた片田舎とは比べものにならないほど賑やかな場所だ。ふたつの大きな街道が交差する宿場町であり、朝から晩まで人の往来が絶えることはない。 「ああ、さすが麻未だな。本当に頼りになるよ」 そういって笑う稜も、布絵の工房にいた頃とは比べものにならないほど生き生きとした表情になっている。正直、この者にここまで商人の才覚があるとは思っていなかった。店先で客人の対応をするのは私の役目だが、そのほかのほとんどの仕事は彼が引き受けてくれる。仕上がった衣を納品するのはもちろん、飛び込みで新規の客を見つけたり、里の工房と頻繁に連絡を取り合ったり。 「そろそろ昼餉にしましょうか。しばらくの間、表の方を頼むわ」 稜が頷くのを確認してから、私は裏口から外に出た。たすきがけをしてから井戸端で手を洗う。朝餉のあとに握り飯を作っておいたから、お茶をいれるための湯を沸かし直すだけでいい。かまどに火が入ったのを確認してから、私はゆっくりと立ち上がった。
―― 一日も早く逃げ出してやろうと思ってね。そのために麻未の協力が必要なんだ。 あのときの私たちは、ただの逃亡者だった。理不尽な生活から抜け出したくて、余計なことを考える隙など全くなかったと思う。とくに私の方はせっぱ詰まっていた。あのまま里に留まっていては、意に染まぬ縁談を受け入れざるを得なくなるのだから。 「店を出すなどとふざけたことを言っても、こっちには手助けするゆとりはないからな。いったい、どうやって資金を調達するつもりだ」 吐き捨てるような叔父の言葉に対し、稜が出した提案。それは、今では無用の長物となってしまった私の婚礼のための品々を金に換える方法だった。その話を切り出すと、さすがの叔父夫婦も異を唱えることができなくなる。彼らの弱みにつけ込むのはさすがに良心が痛んだが、あの場ではそんな悠長なことを言っている場合ではなかった。 「確かにうちの工房で仕上げられる品は素晴らしい、でもそのことが一部の人間にしか知れてないとしたらとても残念なことだと思う」 布染めと染め絵。ふたつの工房が仕事を共有することで、この先はかなり能率が上がるに違いないと稜は考えた。それならば、求められる場所に品物を提供することでさらなる可能性が広がっていくはず。 でも、実際は何もかもが想像とは違っていた。 がらんどうな部屋に初めて足を踏み入れたそのときにはかなりの不安があったものの、その先は忙しさに紛れて余計なことを考える暇などなかった。 思えば。 凱のことだけを考えていた頃の私は、なんと狭い視野の中で生きていたことだろう。あの頃はそうすることが最大の幸せだと信じ切っていたけれど、結局は我が手に残るものなど何ひとつなかった。愛情も信頼も、私が求めたすべては、凱との未来がなくなった瞬間に跡形もなくすべて消えてしまったではないか。
「どうした、まだお湯が沸かない?」 いつの間にかかまどの火を見ながらぼんやりと過ごしていたらしい。裏口から顔を出した稜にそう声を掛けられてハッとする。慌てて顔を上げたら、困ったような微笑みがそこにあった。 「ほら、早くしないとそろそろ次のお客が到着するよ。しっかりと腹ごしらえをして、昼からも頑張ってもらわないとね」 私たちの毎日はとても忙しかった。だから、気がついたら一番大切なことが置き去りにされていたみたい。気がついたときには今更そのことを口に出すのもはばかられるような、そんなぎこちなさが生まれていた。
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