TopNovel花染めの指先・扉>花なんて、いらない・5


「花染めの指先」番外
…5…

 

 

「あら、麻未様ではありませんか」

 それは届け物をした戻り道でのこと。賑わう通りを急ぎ進んでいると、目の前に見知った顔が現れた。

「まあ……これは。いつもお世話になっております、瀬谷(せや)様」

 道行く旅人たちが皆ハッとして振り返るほどの美しい女子。年の頃ははたちを少し超えたくらい、妖艶な輝きがおしろいを綺麗にはたいた肌に溢れている。初めてお目に掛かったときから、特別な「何か」を感じ取っていたが、この者が若くして遊女小屋を切り盛りする女主人だと聞いて納得がいった。
  無造作に結い上げた銀の髪、この瀬谷という女子は「西の民」だ。白磁のように透き通った肌に一度触れただけで、男たちは夢中になってしまうと言う。

「いいえ、こちらこそ。この間の衣も素晴らしかったわ。お宅の品はうちの女子たちにも好評なの。また、近いうちにお願いに伺うつもりよ」

 ―― なんて綺麗な紅なのだろう。

 ふっくらとした口元を染めた艶やかな色に、思わず目を奪われてしまう。あそこに吸い付きたいと思う男は大勢いるに違いない。こちらとて「客商売」であることは同じ、いつ誰に出会っても決して恥ずかしくないように隙のない身支度を心がけている。でも、今回ばかりは相手が悪いということか。

「はい、是非。いつでもお待ち申し上げておりますわ」

 どうしても好きになれない相手というのが存在する。どんなに努力しても、嫌なところばかりが目についてしまう。そしてこの女も、間違いなくそういう存在のひとりだった。

 でも、この人は大切なお客様。ここは大きな宿所であるから遊女小屋はいくつもあるけれど、その中でも彼女の店は一番繁盛している。大口の注文はどうしても欲しい、ここで店を続けていく限りは決して安くはない家賃を払い続けなくてはならないのだから。

「ええ、……そういえば」

 そのまま会釈して通り過ぎようとしたのに、再び呼び止められてしまう。

「稜にまた店に寄ってくれるように伝えてくれないかしら? 繕いものがたくさん溜まっているの。そちらもお願いしたいわ」

 

 私は、稜のことを何も知らなかった。

 今までの人生のほとんどを凱のために生きてきたのだから、当然といえば当然だけど、それにしてもすぐ側にいたはずのもうひとりの従兄弟のことを少しも気に掛けてなかったことに自分自身で驚いてしまう。

「別に、自慢するほどのことでもないと思うし。……まあ、こうして生活の足しになるなら良かったかな」

 女子のような特技だから、ということで、里の両親からも誰からも顧みられることがなかったと笑う。彼に対する周囲の期待はただひとつ、腕の良い染め絵職人になること。もしも指名で注文が取れるようになれば、頼れる実家がなくとも一生食うに困らない、というのが彼らの言い分だった。

「ほら、またひとつできた。悪いけど、持ち手の紐を通しておいて」

 そう言って手渡されるのは、仕上がったばかりの巾着袋。明日、お渡しすることになっている衣の端布を利用したもので、お品物におまけとしてお付けすることになっている。他の店にはないこのような趣向を思いつくのも稜の得意とすることで、そのきめ細やかな対応がさらなる客を呼び込むきっかけになっていた。

「分かったわ」

 陳列棚の一番下の段に置かれた小さな行李から、何本かの飾り紐を取り出す。このような小物を買い求めることも、賑わう宿所にいれば容易なことだった。何もかもが里の生活とは違う、そのひとつひとつに戸惑いながらも、今はどうにかやっていくしかない。

 小物作りや繕い物だけではない。もしも急ぎの注文などが入れば、彼は丸々一枚の衣を仕立てる腕前までを持ち合わせていた。そのようなことは新品の衣を扱う店ではそう多くあることではないが、それでも客の希望にできる限り柔軟に対応できることで、店の評判はますます上がっていくだろう。

「どうして、もっと早くこうやって店を出すことを考えなかったの? あんたなら、ひとりでも立派にできたでしょうに」

 長い間ずっと温めていたように思われる、綿密な計画。服飾に関する知識も深く、一年を専門の訓練校で過ごしたはずの私でも教えられることが多い。それなのに、どうして今まで里でくすぶっていたのだろう。稜の新しい面を次々に見せられるたびに、納得がいかなくなった。

「そりゃあさ、先立つものがないと始まらないだろう。俺には与えられる何もないのだから、すべてを自分ひとりでまかなうしかないんだ。きっと準備をしているうちに、一生を終えてしまったと思うよ」

 何ともない感じでそう告げている間も、彼は針を動かす手を止めない。今夜じゅうに、まだ仕上げなくてはならないものがいくつもあるという。

「だから、麻未にはとても感謝しているよ」

 手元に落とす眼差しは真剣そのもの。その横顔をじっと見つめていても、口に出した言葉以上の何も浮かんでこない。

「別に、私はあんたに何もしてやってないわよ。思ってもないことを、もっともらしく言わないで」

 閉ざした表戸の向こうを、賑やかな一団が通り過ぎていく。宿所の夜は長い。山間の里ではもうとっくにすべての火が消えているような刻限でも、まだまだ昼間のように通りに人が出ているのだ。

 ひとつの巾着袋を仕上げる手間に比べたら、紐を通す作業など簡単すぎる。あっという間にすべてを終えてしまい、また手元が暇になってしまった。帳簿付けもすべて終わっているし、明日の朝餉の準備もできている。

「こっちは勝手にやっているから、先に休んでいいよ。麻未には表のすべてを任せているんだから」

 そんな風に告げられるのも毎夜のこと、私も当然のように頷くとあたりを片付けて立ち上がった。

 

◆ ◆ ◆


  店表の陳列棚に並んでいる反物は、そのほとんどが見本品となる。急ぎの注文のときはそのまま仕立てに回すこともあるが、ほとんどの場合はお客様のご希望に合わせたものを作り上げるために里の工房に詳細を告げて地染めからのすべての過程を発注することになっていた。文も馬を使う者に頼めば半日かからずにあちらに届くし、そう不便に感じることもない。
  布に着色を施すための染め粉もこの頃ではずいぶんといろいろな種類が増えてきた。それに伴い、以前では考えられないほど微妙な色の濃淡も自在に出せるようになっている。可能性が無限に広がることで、お客様に提供する立場としてはさらに腕が鳴るところ。宿所であるから多集落の民が入り乱れ、それぞれに髪の色も肌の色も異なるだけに通り一遍で済ませられることはない。
  特に発色の良い綺麗な色味をそろえた棚は、その中でも私の一番気に入っている場所であった。客が途切れるごとにその前に立ち、ひとつひとつ手に取ったり並べ替えたり。ときには自分自身に当ててみたりする。
  ここにあるほとんどはあの女の手がけたものであることは間違いない。染色の腕こそには残念ながら恵まれていなかった私であるが、仕上がった作品から様々なことを読み取ることはできる。今もなお、忌々しい過去に引きずり続けられるのは不本意であるが、その感情を差し引いても商品となったそれらの素晴らしさは認めざるを得ないと思う。

 ―― 凱も、ここからすべてを汲み取っていったに違いない。

 最初から分かっていた、凱にとって私はあくまでも「妹」という存在でしかなかったことを。それでも全く構わないと思った。繁盛を続ける染め絵の工房を守っていくために彼に課せられた責務が立派に果たせるよう、陰でしっかりと支えていけばいい。凱だって自分の置かれた立場は重々承知していたはず、納得ずくで両親の希望に添うつもりだった。だけど……

 

「あれ、静かだと思ったらひとりだったんだ。珍しいね、昼餉の前に客が途切れるなんて」

 裏からひょっこり顔を出した稜は、すぐに私の手元にあるものに気づいた。

「それ、綺麗だよね。俺も前からずっと気になっていたんだ」

 それから陳列棚の前まで進み出て、ぐるりと全体を見渡す。

「工房の小さな部屋に籠もって作業しているときには全く分からなかった。ひとつずつの反物が皆違う表情を見せていて、ただひとりの一番似合う相手を待っている。世の中にはこんなにたくさんの色や絵柄や文様が溢れていて、それが皆の心を惹きつけるんだね」

 ―― 俺には何もなかったから。

 自嘲気味な響きを含みながら、稜は幾度となく繰り返しその言葉を呟く。それを耳にするたびに、何故か私の胸の奥がずきりと痛んだ。

「まあ、そんなところかもね。もっとも、こっちはその『欲』に便乗して商売しているんだから」

 何気ない振りをしてそう言うと、私は手にしていた反物を棚に戻した。でも、指先にいつにない視線を感じ取る。

「―― それ、麻未に似合うよね。自分でもやっぱりそう思う?」

 己の心内を明かされたような気がして、私は驚きを隠しつつも彼の方を振り向いた。

「どうして、この頃はそんな風に落ち着いた色味ばかりを選んで身につけるのかな? 里にいた頃のように、もっと華やかに着飾ればいいのに」

 稜の眼差しは、くすんだ浅黄に染まった私の衣に向いている。

「別に、そんな風にする必要はないもの。私はあくまでも人妻なのよ? 身の程をわきまえずに軽々しく着飾って、長屋の噂にでもなっては困るわ」

 吐き捨てるようにそう言って、そのあとの彼の表情を確かめることもせずに裏口に進む。少し早いが昼餉の準備をしてしまおう、そう思った私の視線の端に朝畳んだ二組の寝具が部屋の隅に積まれているのが見えた。

 ―― そうよ、私は「人妻」でしょう?

「表向き、にはね」

 自分自身の中からこぼれ落ちた問いかけに短く答えたのは、裏口から外に出てからだった。

 

 最初の頃こそは、かなり身構えていたものだ。

  ふたりの若い男女が許されてひとつの部屋で夜を過ごす。そのときに必ず起こることを避けて通れるわけもない。稜も、その気であるものだとばかり思っていた。
  それならば仕方ない、今回の話を承知したのは自分なのだから。全く気の進まないことではあるが、もしもそのときが来たのなら、すべてを甘んじて受け入れようと覚悟を決めていた。

 ……でも。

 この場所に移り住んでのしばらくは、目の回るような忙しさだった。一日でも早く店を開けたい。そうしなければ、わずかばかりに残った蓄えもどんどん心細くなってしまう。大勢の人を頼むほどの余裕もなかったし、出来ることは何でも自分たちでやった。そうなると、当然のことながら夜には疲れ果てている。面倒なことは何も考えられず、しとねに潜り込んでしまう日々が続いた。

「……どこかに行くの?」

 おかしいな、と気づき始めたのは、ようやく店も開き気持ちも落ち着いた頃。夕餉のあとで出掛ける支度をしている稜に気づいた私は、不思議に思って声を掛けた。

「ああ、辻の店に呼ばれてね。几帳がいくつか破れ掛けているというんだ。いちいち取り外して持ってくるのも面倒だから、空いている部屋のものから直接繕ってしまおうと思って―― 料金は弾んでくれるって話だし」

 そう言う夜が幾度もあり、そのうちにそれが当然のことのようになってしまった。珍しく家に留まっている日もあれこれと手仕事を抱えていて、彼が私よりも早く休むことはない。そして、朝目覚めたときにはすでにとなりのしとねは空になっている。

 煩わしいことは何ひとつない、すべては思い通りに上手く動いている。周囲の目も里の皆も、そして稜自身もそう思っているに違いない。だから、あえて口にすることではないと思っていた。

 

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