TopNovel花染めの指先・扉>花なんて、いらない・6


「花染めの指先」番外
…6…

 

 

 村祭りまでの日数が両手で数えきれるほど間近に迫ると、連日のように里の工房から届けられる行李で狭い店内はいっぱいになってしまった。
  どこから手をつけたら良いのか分からないほどの混乱ぶりであるが、仕上がったお品物を注文されたお客様にお渡しするときに味わうことの出来るこの上なく晴れやかな気持ちが嬉しい。

 朝餉の片付けもそこそこに、今朝も最初の客が店を訪れていた。仕立て上がってきたばかりの品を肩に掛けた彼女は、大きな鏡の前でにっこりと微笑む。

「まあっ、想像以上に素晴らしいわ! 本当に、この衣が私のものになるなんて……!」

 安くて良い品をそろえた店が出来たと聞きつけて、途切れなく次々と新しい客がやってくるようになっていた。特注品など初めてで今までは雲の上のようなことだったと言う者も多く、試着をしたときの感激ぶりは相当なものがある。

「そうね、こちらの草履と帯も一緒にいただこうかしら? 今回はずいぶん勉強してもらって、準備していた銭がだいぶ余ってしまったの。だから、思い切って奮発することにするわ」

 そんな風にして、さらに追加でお買い求めいただくことも多い。それらの小物のほとんどは、稜が夜なべ仕事で仕上げたもの。ひとつひとつはそう高価な品ではないが、その分手軽にお手にとっていただけるので売り上げは上々だ。元手もほとんど掛かってないのだから、店としてはこれほどに嬉しいことはない。

「ありがとうございます。それでは端数はおまけさせていただいて、すべてでこちらになります」

 計算に強くて本当に良かったと思う。少ない桁数なら頭の中で瞬時に合計が出てくるし、このくらいの割合でならおまけできるという試算も出来る。いつかは役に立つだろうと念入りに覚えたそろばんの腕も、ことのほか重宝していた。

 浮き浮きとした足取りで店を出て行くお客様を通りまで見送ったあとにそそくさと店の中へ戻り、辺りを片付けながら直接ご自宅まで届けることになっている完成品の梱包を始めた。夕方までにすべての荷がほどけるか不安になるが、とりあえずは手がつけられるところから始めるしかない。
  一枚、また一枚と行李から取り出すたびに、ご注文を受けたときのお客様とのやりとりがはっきりと脳裏によみがえってくる。良かった、どれも最高の仕上がりとなっている。これならば、必ずご満足いただけるに違いない。そう思いつつ滑らかな表に指を置くと、遙か遠い工房での賑やかな作業の様子が思い出される。

 工房に充満する染料の匂い、染色釜を煮炊きして出る蒸気。少し離れた距離から眺めている分には、決して嫌いではなかった世界。ただ、直接そこに自分が手をつけるとなれば話は別になる。
  喜んであの世界に身を投じるほどの才能が私にあったら、全く違う人生が待っていただろうか。もしもあの女以上のものが私にあれば……あるいは。
  遠い記憶が突然ふわりと涌き上がり、次の瞬間には消えていく。いくら「今」が満たされていようとも、過去に負った傷が消えることはない。今更どうすることも出来ないと知っていても、この仕事に関わっている以上は、一生逃れることの出来ない感情だ。

 ―― あちらは、相変わらず楽しくやっているのであろう。

 つい先だって行われた凱とあの女の祝言の一部始終は、里からの文で詳細に聞かされている。訓練校の老師たちを唸らせた対の晴れ着に身を包んだふたりの姿。筆をしたためた母親は、同席しつつもやはり口惜しくてならなかった様子だが、それでもこの件に関しては諦めるしかないと結んでいた。聞けば、あの女の腹にはもう赤子がいるらしい。「お前たちはどうなのか」と問われても、返す言葉もないではないか。

 凱たちは「因縁」の谷をいとも簡単に越えていった。そして私は、どこへ飛び立てばいいと言うのだろう。

 

「やあ、忙しいね。やってもやってもキリがないほど仕事があるというのは嬉しいことだけど、ここまで目が回るようだと参ってしまうよ」

 ―― と。

 裏口から戻った稜が声を掛けてくる。彼も今朝から何度も店に出入りしながら休む暇もなくお品ものを届けて回っていた。そこで新たな注文の予約をいただいてくることもあり、今後ますます客入りが多くなることは間違いない。
  里にいる頃はそうも思わなかったのだが、稜もまずまずの色男の部類に入るのだろう。商人にありがちな軽々しさがあるものの、そのことがむしろ飾らない親しみを与えているようにも見える。本当にこの仕事に向いているのだ、嬉々として立ち働いている姿からもそれがうかがえた。

「お疲れ様、次に届ける分も準備できているわよ」

 忙しくしていれば、余計なことを考える暇もない。それが、せめてもの救いだった。

「そう、店の方は順調? 何か困ったことはないかな」

 水桶からひしゃくで一杯汲み出し、それを美味しいそうに飲み干す。彼の額から、またひとしずくの汗が流れ落ちた。

「そうね、……ところでこちらの棚の見本はまだ届かないのかしら。言われるままにいくつも戻してしまったから、不便で仕方ないのよ」

 今日こそはと期待してあちこちと荷をほどいてみたが、希望の品はどこにも見つからなかった。稜の話によれば、新しく仕入れた岩絵の具が今までのものとは違う発色をするため、見本の反物も差し替えたいと里からの文に書かれていたらしい。

「そうだな。じゃあ、一度催促してみるよ。こちらの商売に差し支えるのでは困るからね」

 送り返してしまった反物の中には、私が特に気に入っていた数点も含まれていた。直接身につけることはなくても、大好きな色に囲まれていればそれだけで気も晴れるというもの。忙しい中のささやかな楽しみが奪われてしまったようで、少し寂しい。

「ええと、次はこちらの荷を持って行けばいいかな。―― あれ、この包みは?」

 畳紙(たとうがみ)に綺麗に包まれたお品ものを次々に運び出していた稜がふと手を止める。その声に、私はハッとして振り返った。

「ああ、―― それは違うの。ごめんなさい、こちらにいただくわ」

 女子の衣を包んだものよりも、それはわずかばかり重みがある。ああ、いけない、私としたことが迂闊なこと。きちんと分けておいたつもりだったのに、忙しさに紛れてついつい他のものと一緒にしてしまっていたのだ。

「そう、じゃあ昼餉の前にもう一回りしてくる。―― あ、そうだ。先ほど言付かったのだけど、お昼から瀬谷様が店にお出でになるそうだよ」

 良かった、稜は何も気づかずに行ってしまった。同じ場所で暮らしていると、こういうときに困る。隠し事をしたくても、すべてがお見通しになってしまうのだから。

 ―― でも。

 私は包みも解かないままで、紙の上から指を当てた。しっとりした上質の絹がその下にあることがしっかり感じ取れる。良いものと悪いもの、美しいものとそうでないもの。少なくとも、私にはその区別をつけることが出来る。その対象が調度や衣であれば……それは容易いこと。

 だけど、やはりあの女子は嫌い。嫌いであっても、上客であれば避けて通ることは出来ないのだ。それに、……少なくとも稜の方は彼女に対してまんざらでもない様子。たびたびあちらの店に立ち寄っているのは間違いない。

 ……たぶん、だから許せないのだと思う。

 どうして自分がこのような感情を抱くのかはわからない。そして、この気持ちはどこへ持って行くことも出来ないのだ。

 

◆ ◆ ◆


「まあ、これもいいわね。ちょっと見せてくださる?」

 瀬谷様が店を訪れると、ぷうんと香油の匂いが辺りに漂い胸が詰まる。艶やかな髪にも肌にもふんだんに用いているに違いない、しかもこの香りはかなり高級な品であるに決まっている。

「はい、今年初めて試みたお色だと聞いています。どんな肌色の方にも顔映りがいいのでおすすめですよ。しかもまだまだ珍しい品ですから、目新しさもあってそれだけで話題にもなりますしね」

 羽振りのいい店の女主人であるから、買い物もことのほか派手である。女子であれば誰でもあれこれ好きなものを求めるのは楽しい時間だと思うが、これほどに奔放に行うことが出来る人間はそういない。羨ましいと思う反面、あまりにも立場が違いすぎることを思い知らされたりもする。

「そう、じゃあ是非いただくわ。ウチの若い子たちに着せたら、衣の分だけ価値が上がるかも知れないしね。客商売は結構いい加減なものなのよ、特に酒が入ると男は変わる。そして、面白いほど金を落としてくれるわ」

 軽く笑い声を上げてそう告げるけど、別に私にとってはそんなこと聞きたくもない。でも笑顔で頷くほかないのは、この者が「お客様」であるからだ。

「ただ、仕立てに回すと時間が掛かるのよねえ。すべてを稜に任せてしまえば早いでしょうけど、それじゃあ他の仕事が出来なくなるから無理かしら。彼の腕は本当に確か、針を持つ手つきから他の者とは全く違っているのですものね」

 一から十まですべてを知っているように話すのも気に入らない。しかし、胸底から湧き出そうになった嫌悪の心は、次の瞬間に慌てて飲み込んだ。

「ええ、いつもお引き立てありがとうございます」

 理由はどうであれ、頻繁に遊女小屋に通う亭主を快く思う妻などいないはずだ。でもその感情をあからさまに顔に出すことは出来ない。

「まあ、……本当に良くできた奥方ですこと」

 妖艶な微笑みをたたえた口元からこぼれ落ちた言葉。そこに隠されているのは嘲りか、棘か。どちらにせよ、この女子が私のことを好いてはいないのは分かる。むしろ、嫌悪する対象として判別されているのだろう。

「でもそうやって余裕の表情でいられるのもいつまででしょうね。あなたたちはまるでままごとの夫婦のよう、お互いが自分の思い通りの世界の中に暮らしていて、そこから一歩も踏み出そうとしないのですもの。私、そんな風にして壊れていった人たちを数えきれぬほど知っているわ」

 一体、この客は何が言いたいのだろう。挑発の響きを鼓膜に受け止め、私はゆっくりとおもてを上げた。

「ご忠告、ありがとうございます。でもご安心くださいませ、私たちはそう容易く崩れたりはしませんから」

 彼女が何を知っていようと構わない、決して負けるものかと心に誓う。そう……私たちは理不尽な里を追われた者たち、他にどこにも行く当てはない同じ運命の船に乗ったふたりなのだから。

「まあ、見上げた心意気ですこと」

 不敵な眼差しに、吸い込まれるものかと必死で踏ん張る。ここで取り乱しては負け、何としてもやり過ごさなければならない。
 いくら稜がこの女子を「たいした商売人だ」と一目置いているとは言っても、私までがその考えに同調する必要はない。

「知らぬは本人ばかりなり……とやら、全くこちらの奥方には敵いませんわ」

 何が可笑しいのか、声を立てて笑う様をゆっくりと見つめる。どういうことなのだろう、この女子はわざわざ他人の家の事情に土足で踏み込んで行くのが好きなのか。そうであれば、どうにも趣味の悪いことだ。

「……ありがとうございます」

 たかだか商売女の言うことだ、信じるには足らない。結局はこの客から注文を取り、金をいただければそれでいいのだから。その過程でどのようなやりとりがなされようと、最終的に手に入るものが多ければそれでいいのだ。きれい事など言っていられない、店の売り上げがなくなればたちどころに生活は破綻してしまう。

 ざわざわと、心の奥がさざ波たつ。それでも私は唇をきゅっと噛みしめて、自分に与えられた仕事を着実にこなしていた。

 

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