TopNovel花染めの指先・扉>花なんて、いらない・7


「花染めの指先」番外
…7…

 

 

「もうずいぶん夜も更けたよ。こっちはまだキリがつかないし、待たずに先に休んでいいから」

 毎度のことでとうに聞き飽きた言葉が、今夜も私に投げかけられる。いつもならばすぐに承知して従うのだが、どうしてもそんな気になれなかった。

「ううん、まだいいの。あまりにも仕事が立て込んでいて、気が高ぶっているみたい。きっと横になったところでなかなか寝付けないと思うわ」

 側でうろうろされるのが邪魔なのだろうか。本人はそういうつもりで言ったのではないと信じたいが、ついついそんな風にいぶかしんでしまう。

「ほら、そろそろ糸が短くなるでしょう。私だって、針に糸を通すくらいなら出来るわ。……さあ、貸してみて」

 こちらに移り住むにあたっては何かと物いりであったため、とても衣までには手が回らなかった。だからふたりの持ち合わせているのは、里にいた頃から着込んで洗いざらしたものばかり。肌に馴染むと言えば聞こえはいいが、言うなればただの着古しである。それでも丁寧に扱い見苦しくないように繕ったり染め直したりしていたから、日常着には十分だ。

「その手提げ袋も、変わったかたちでいいわね。きっとすぐに買い手がつくわ」

 巾着型に口を絞ったその上の余った部分が、花びらのように四方に大きく垂れ下がっている。裏打ちした山吹の鮮やかな色が目にまぶしく、表布の紺色を引き立てていた。

「そうかな、だといいのだけど。この頃、都の方ではこのようなかたちが流行っているそうなんだよ。人づてに聞いて、真似をしてみたんだ」

 ―― その話、どこで耳に入れたのやら。

 たぶん、瀬谷様の店に違いないと思いつつ、はっきり訊ねることも出来ずにいる自分が恨めしい。どうにか気持ちを立て直し、明るい燭台の下で針穴をかざしてみる。そうしていると、稜がふと気づいたように言った。

「……また、手荒れがひどくなっているみたいだね。この間の軟膏はどうしたの? 続けていればとてもよく効くという話だから、使ってごらんよ」

 自分でも多少は気にしていたことだけに、改めて指摘されるとどきりとする。里にいた頃と比べれば、どうしても水仕事の量が増えていく。もともと、それほど丈夫な肌質ではないからその影響はてきめんに現れるのだ。
  里では、身の回りのことはすべて使用人たちがやってくれていたから、私は腰巻きの一枚も自分で洗うことはなかった。稜は当時の私しか知らない。

「別にこれくらいのこと、何でもないわ。訓練校にいた頃なんて、もっとひどいくらいだったもの」

 思い出すのもおぞましい、あれは全くもって嘆かわしいばかりだった。いくら手持ちの軟膏を塗り込んでも、頻繁に水を使っていては追いつかない。ひとつ色を差しては水に通し、また色を足しては水にくぐらせる。そういう風にして色止めをしていく手法であるから、仕方ないのだ。
  それでもあの頃は出来るだけその被害を少なくしたくて、課題制作も適当にしていた。手を抜いたぶんだけ仕上がりには影響するのだが、そうであっても自分自身にとってはたいした痛手ではなかった。

「でもやっぱり、そのままにしておくのは問題だよ」

 きっぱりとそう言いきる横顔、その眼差しはすでに私を見てはいない。

 ―― 一体、誰と比べてそのようなことを言っているの?

 そんなのわかりきっている、やはりあの店の女子たちに決まってるではないか。男たちをささやかな夢の中へといざなう行き先案内人である彼女たちは、すべてにおいて理想的でなければならないのだ。

「少し前から、考えていたんだけど」

 返し縫いをして糸を切ったところで、稜は再び顔を上げた。

「店の仕事もだいぶ忙しくなってきたし、そろそろ人を雇おうかと思っているんだ。とりあえずは炊事洗濯を引き受けてくれる住み込みの子なんてどうかな? もしもものになりそうだと思ったら、店のことも少しずつ教えていけばいいと思うし」

 彼にとってそれは、世間話の延長のようなものだったのかも知れない。穏やかな眼差しには、言葉以上の何も浮かんでいなかった。

「瀬谷様に頼めば、すぐに紹介してもらえると思うよ?」

 そしてまた、新しい針に手を伸ばす。だから稜は、途方に暮れた私の姿など全く気づいていなかった。

 ―― この家に、さらに他人を入れようというの?

 どうしてそんな考えに行き着いたのだろう。確かに、今のままではすべての仕事を滞りなくこなしていくのは難しい。ぎりぎりのところで踏ん張ってはいたが、正直この辺りが限界かなと思っていた。

「ねえ、稜―― 」

 つい呼びかけてしまったものの、続ける言葉が浮かんでこない。すると、彼がゆっくりと顔を上げた。

「悪いけど、麻未」

 その声が、直に心に突き刺さる。何ごとかと見つめる私に、稜はゆっくりと続けた。

「そこに立たれると、手暗がりになるんだ。だから、……もう少し離れてもらえる?」

 彼へと伸ばしかけた私の腕が、その瞬間に止まった。

 

◆ ◆ ◆


 辺りはもう花の盛りというのに、心はどこまでも深く沈んでいる。かろうじて店番だけは滞りなく済ませるものの、その他のことではまるで魂が抜けたようになっていた。

 ―― これじゃ、とても恋女房の顔だとは思えないわね。

 手鏡の向こうには、自嘲気味に笑う女の顔がある。人は誰も、こうして己の姿を鏡に映すときには、特上のすまし顔を作るという。だからそれを本来の姿と思ってはならない、感情にまかせて表情を変えていけば全く違った印象となるのだ。
  おおらかな者はそのように、腹黒い者はやはりそのように。胴体の上に当然のように乗っているその部分が、隠しおきたい心内をはっきりと表してしまう。そうして重ねていった年月により、熟年期には隠しようのない明らかな違いとなって来るのだ。

 確かに、顔の造りそのものは整った方だと思う。滑らかに曲線を描いた眉に、大きな瞳。鼻の高さも格好も悪くはなく、口元も多少小振りではあるがふっくら肉付きがいい。肌艶も髪質も申し分ないはずだ。南峰特有の淡い肌色と髪色でほとんどの色目を自在に着こなすことが出来たし、どうしたら自分がより美しく見えるかもちゃんと分かっている。

「ならば、……一体何が気に入らないというの?」

 全く持って、口惜しいばかりである。もしも「是非に」と請われれば渋々でも承知してやるものを、あちらにはとんとその気はないらしい。初めに「夫婦になる」と言われたときにはさすがに腰が抜けるほど驚いたが、そう悪い話ではないとも思った。
  確かに長年夢見ていた結末とは少し違う、でもあのまま工房の他には何もないような土地で腐ったまま一生を終えるのは嫌だった。周囲の者たちへの体裁もある、自分が「選ばれなかった女子」と陰で噂されるのは耐えられない。

 外はそろそろ暮れかけている。今日はもう新しい客も来ないようだし、早々に店じまいをしてしまおうか。ここ数日の頑張りで、村祭りのためにと仕立てられた晴れ着たちの納品はすべて終わっている。いよいよ明日が祭りの当日なのだ。
  次々に手元から飛び立っていった衣たちを、一枚一枚思い起こす。それらが提灯で明るく照らし出された祭りの夜を鮮やかに彩るのだ。ああ、是非その光景を見てみたいもの。衣というものはやはり、直接身につけて役立ててくれてこそ価値がある。

「でも、そんなの無理だわ」

 心の中に湧いた望みを、次の瞬間にはあっさりと打ち消している。若い男女が出会い互いを求め合うという春の祭典、そのような華やいだ場所に今の自分は似合わない。

 もしかしたら、と考える。

  稜はこの先もただ、姉弟のように過ごしていく気楽な同居人が欲しいだけなのだろうか。体裁を整えるために「夫婦」という名目にはなっているが、もともと里では他の従兄弟たちと共に家族同様寝食を共にして過ごしてきた身なのだ。今更、違う感情を抱こうとしても、それは無理というものなのかも知れない。
  好いた女子は他に囲えばよい―― もしも本気でそのようなことを考えているのだとしたら、とんでもない屈辱だ。

 

「あれ? 麻未、どうしたの。具合でも悪い?」

 ハッとして振り向くと、そこには名目上の「夫」が立っていた。いつの間に戻っていたのか、物音にも気づかなかったとは。

「かまどに火をおこしてもいないから、どうしたのかなって。……あ、いいよ。無理に支度しなくても」

 夕暮れの朱が、裏口からひっそりと忍び込んでくる。ゆっくりと動くその口元が、どこか作りもののように思われた。

「これからすぐに出掛けなくてはならないから。道具を取りに戻ってきただけなんだ」

 そう言うと、裁縫道具の入っている行李を開けて中を確認する。さらに傍らの棚からいくつかの糸巻きを選び出すと、そこに加えた。

「俺の分の飯はいらない、向こうで用意してくれるというから。でも大丈夫? 辛かったら、早めに横になった方がいいよ」

 こちらの顔色を確かめようとしたのだろうか、稜は私のすぐ側までやってきて腰を落とした。

「……また、瀬谷様の店に行くの?」

 もう少しマシな言い方があるだろうと、我ながら情けなくなる。こんなのは自分じゃない、言いたいことを我慢して格好ばかりつけて。そんな風にしたって、自分の得になることなんて何もないのに。

「ああ、急ぎの仕事を頼まれたからね。でも、今夜は出来るだけ早く戻るよ」

 当然のように告げる返事を耳に入れたとき、心にひんやりとしたものが舞い降りてくる。こういうとき、真の夫婦であったら、妻はどのように切り返すのだろう。それをわざわざ頭で考えなくてはならないほどに、とても遠い場所まで来てしまっていた。

「……どうして……」

 私は、咄嗟に稜の袖を掴んでいた。そうすることで何が変わるとも思えない、でもどうしてもこのまま行かせるわけにはいかないと思った。

「―― 麻未?」

 頬を生ぬるいものが流れ落ちていく。泣くつもりなんてなかったのに、気がつくとそうなっていた。

「困ったな、そんなにしんどい? 申し訳ないけど、すぐに行かなくてはならないんだ」

 しかし稜は、容赦ない言葉を返してくる。それこそが、私に対するすべての「答え」だと分かった。

「……」

 私はゆっくりと首を横に振ると、彼の袖を離した。そして、袖口で頬をぬぐうと、静かに向き直る。

「いって、らっしゃい」

 心にもない言葉を告げることにも、もう慣れてしまっている。当然のように遠ざかっていく足音、私はそれにゆっくりと背を向けていた。

 

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