TopNovel花染めの指先・扉>花なんて、いらない・8


「花染めの指先」番外
…8…

 

 

 夢を見ていた。まだ幼くて、山間の里だけを世界のすべてだと信じていた頃の。

 ―― 久しぶりだな、と思う。少し前までは、数日ごとにこの光景に巡り会っていた。心の中に幾度か迷いが生じたときにも、どうにか乗り越えて行けたのはこの夢が後ろからしっかり支えてくれたからである。

 やはり、花の盛り。子供たちの遊び場であった野山には色とりどりの草花が咲き誇り、鮮やかな色と芳しい香りで楽しませてくれる。でも、その日の私は少し不機嫌になっていた。

「……どうして。少しくらい暇を作ってくれてもいいのに」

 私の非難の声で訴えても、凱は首を縦には振ってくれなかった。

「仕方ないよ。今日の作業は込み入っていて、途中で抜けることなんて無理だから」

 あれはちょうど、凱が工房での仕事を本格的に始めた頃だった。まだ十にも届かない程だったから、大人たちは皆「足手まといになるだけだ」と反対したのだが、あまりにも熱心に頼むので仕方ないと折れたらしい。
  そのときから凱は変わってしまった。以前だったら私が誘えば他の用事など全部投げ出してでも従ってくれたのに、今ではすべてが仕事優先。どんなに頼み込んでも、すげなくかわされてしまう。

「だけどっ、このたびの仕込みがすべて終わるまで待っていたら、花の盛りは終わってしまうわ」

 こちらだって、凱の母親である叔母上にあれこれと頼まれて忙しいのだ。今日はようやく手に入れた休日なのに。
  春先は夏の衣替えに先駆けて、注文がたくさん入る時期である。このかき入れ時を逃すまいと、叔母は毎日客集めに夢中になっていた。少しでも脈がありそうな常連様がいれば、幾度でもその屋敷に足を運ぶ。長い道中をひとりでは寂しいと、供の代わりに私を連れ出すことも多くあった。

「そんなこと言ったって……あ、もう行かなくちゃ」

 山伝いの細い道を越えていく奥の場所は、子供だけで足を向けるのは躊躇われた。だけど、工房が忙しくなるこの時期に、暇をもてあました大人などどこにも見あたらない。そうなれば諦めるほかないのだが、私にはそれが口惜しくてならなかった。

「何よっ、凱なんて嫌い! どうして、言うこと聞いてくれないの……!」

 普段では誰も足を踏み入れることのない奥の場所には、珍しい花がたくさん咲いていた。その中でも私が一番好きだったのは、薄桃色の花びらを幾重にも重ねた可憐な花である。名前など知らない、きっとそう貴重なものでもなかったのだと思う。でもそれを腕いっぱいに抱えているときが、一番幸せだった。
  凱もそのことは良く承知してくれている。前の年までは「そろそろだね」と切り出すのはむしろ彼の方だった。険しい山道も、男子たちにとっては楽しい遊び場。ひょいひょいと足早に進んでいく後ろを、私はいつも必死で追いかけていた。

「大人になるなんて、つまらないばかりなのに」

 こんな風に好き勝手過ごしていられるのも、あと数年だけのこと。一定の年齢になれば、己が身の丈にあった仕事が与えられて、忙しく過ごすことになる。周囲の大人たちを見てそれが分かっていたからこそ、自由な時間を思い切り楽しみたかった。でも凱はそんな私の気持ちなど知らずに、ひとりで勝手に前へ進もうとする。

 しかし、ひとりで駄々をこね続けたところで、凱が再び姿を現してくれることはない。ひとりきりで出掛ける気力もなく、その日はぐずぐずと自室に籠もっていた。他の従姉妹たちには「凱と花摘みに行くから、今日は遊べないわ」と前もって断りを入れてある。今更それを訂正して仲間に入れてもらうのも面倒だった。
  凱にとって私は特別の存在―― それを皆に知らしめたい。ここには私と似たような年齢の従姉妹やそのほか使用人たちの子供が数多く住まっている。でも、凱はその誰にも渡すことは出来ない。彼は私のもの、私は将来凱といっしょになるためにここにいるのだ。他の女子たちとは明らかに立場が違う。だから……彼からは誰よりも何よりも一番に大切にされなければならないのに。

「それなのに、……ひどすぎる」

 私はこの先、凱のためにならどんなことだってするつもりだ。だから、彼も私に対してそうであって欲しい。もちろん、工房での仕事は大切。そのことについて、文句は言わないつもり。だけど、……年に一度、それもほんの一刻かそれよりももう少し長いだけの時間を私のために空けてくれるくらい、出来るはずでしょう……?

 何もやる気になれず、板間でごろごろしていた夕べ。障子戸の向こうで、小さな物音がした。

 ―― 凱が心配して訪ねて来てくれたのかも……!

 その頃に暮らしていたのは、本館から渡りを進んだ先にある離れ対のひとつだった。入り組んだ渡りを通るよりも早いと、凱はよく中庭を横切ってやって来る。

「……凱っ!」

 慌てて起き上がって障子を開けたその先に、人影はなかった。でも上がり口の縁には足の踏み場もないくらい、ぎっしりと花が置かれている。

「すごい、……こんなにたくさん」

 それこそが、あの奥の場所でしか咲かない私の大好きな花だった。丁寧に出来るだけ茎を長く刈り取ってある。これならば、花器に活けて水をやればかなり長持ちしそうだ。

「どうせなら、一緒に行きたかったのに」

 そう呟いてみたものの、やはり嬉しさは隠せない。口ではあんな風に言って突き放したのに、やっぱり凱は私のことをこんなにも深く想っていてくれた。抱えきれないほどの花たちがそれをはっきりと証明してくれる。

 枯れ葉を丁寧に取り去りながら、ひとつ残らずの花を拾い上げている間。私の胸はたくさんの幸せで満ち溢れていた。

 

◆ ◆ ◆


「……」

 そして、急に辺りが真っ暗に戻る。頬に冷たい板間の感触、いつの間に寝入っていたのだろう。

「……ええと……」

 今がいつで、ここがどこなのか。一瞬はその判断も付かずに途方に暮れていた。夢の続きのけだるさが、額の辺りに漂っている。高い場所にある明かり取りの窓から、白い月明かりがほんのりと差し込んでいた。その丸い場所に、掌を当ててみる。少しもぬくもりを感じないそれが、手の甲を照らし出した。

 ―― ああ、そうか。また置いて行かれたのだ。

 寂しいような、でもホッと安堵したような。複雑な気持ちが心を満たしている。私はゆっくりとその場に起き上がり、乱れた髪を手櫛で軽くととのえた。
  かすかに残る花の香に、泣き出したい気分になる。もう頬はすっかり乾いていて、先ほどの雫などどこにも見あたらない。あれは、悲しさから出たものではなかったと思う。ただただ口惜しくて、憎らしくて。周囲にも自分自身にも苛立ちすぎて、溢れ出たものだった。

「私は……少しも悲しくなんて、ないわ」

 あの夢には続きがある。自分でも見惚れてしまうくらい美しく愛らしい花を活け終えた私は、すぐさまその足で凱の元へと向かった。

「あのっ、……今日は本当にありがとう!」

 すると彼は、なにやらわからないといった曖昧な表情になる。そのときは照れているのだとばかり思っていた。こっそりとやったことなのに、このように表沙汰にされては立場がないと言いたいのだろう。

 ……だったらいいわ、その気持ちだけを受け取っておくから。

 両脇の髪をすくって後ろで結び、その場所にもこぼれた一輪を挿した。でもそれは、自分の対に戻るまでの間にどこかで落としてしまったらしく、あとで確かめたときには見あたらなかった。
  知らない間に、何もかもが指の隙間からこぼれ落ちてなくなってしまう。あの頃に感じていた溢れるばかりの幸せも、今では跡形もなく消え失せているではないか。

 ―― 結局、私は誰からも愛される資格などない女子なのだ。

 その理由がどこにあるのかはわからない。いつだって、私は精一杯生きてきたつもりだ。期待されればそれにどうにかして応えようと必死になったし、実際にほとんどは上手くいっていたと思う。誰よりも凱にとって有益になる存在、それが私であった。でも……結局、彼は私を選ばなかった。

 染色の才能がないから? それとも、訓練校で努力を怠ったことに対する天罰? ……どちらにせよ、今となっては取り返しのつかぬこと。一度、あの女に渡してしまった凱の心は二度と私に戻ってくるはずもない。もしも万が一、返されたとしても、どうして受け取れるものか。

 静かに立ち上がり、月明かりだけを頼りに奥の間へと向かう。見ると、ひとり分のしとねの準備がきちんとされていた。多分、夕刻出て行く前に稜がととのえてくれたに違いない。その手前には小さな棚が置かれていて、ふたり分の茶碗や湯飲みが並んでいた。

『あなたたちはまるでままごとの夫婦のよう』―― 瀬谷様の言った言葉は正しい。私はこの場所で、自分が思い描いた「夫婦」というかたちに沿おうと必死になっていた。稜の本当の気持ちがどこにあるかを確かめることもなく、ただただ「格好良く」収まることにばかり終始していた気がする。
  理不尽な身の上から逃れるために、ここまでやってきた。でもいくら体裁ばかりを取り繕ったところで、結局は同じこと。私は私、他の人間になどなれるはずもない。当然のように他所に通うことを日常とする夫を持ったならば、その事実を甘んじて受け入れるほかないのだ。

 必死に追いすがったところでどうなることでもない、それくらい一度痛い目を見ればわかる。再び、同じ失敗などするはずもない。

 ―― 口惜しい。

 心の中で、そう呟くことくらいは許して欲しい。どこにも行き場のない気持ちが、今も静かにくすぶっている。「どうしても」と請われたから、ここまで来たのに。あの強引すぎるまでの情熱は、一体どこへ行ってしまったのだろう。
  里を出るまでも、この地にたどり着いてからも、ただただ必死に過ごしていた。目の前のことを次々に片付けていかなければ始まらなかったから、やり通すしかなかった。何もかもが初めてのことばかり、戸惑うことも多くあったが、ひとつ乗り越えたあとの充実感はかつて味わったこともないほど素晴らしい。それは稜も全く同じだったと思う。無我夢中で過ごしていたから、真実に目を向ける必要もなかった。

 器たちが入った棚にそっと手を置いてみる。これは、ここを居住まいと決めたその日に、その辺にあった端材を使って稜が組み立てたもの。適当な大工道具を器用に使い、その手つきは鮮やかで思わず見惚れるほどだった。

「驚いた、見かけによらずに器用なのね」

 遠慮ない言葉が口をついて出てくると、それを聞いた彼が顔を上げて嬉しそうに微笑んだ。

「そうだな、実際に布を染めたり図案を考えるのはそれほど好きではなかったけど。版型を作るのは結構得意だったんだよ。そのときだけは重宝がられていた、糸鋸やノミの扱いも上手いって褒められていたんだよ」

 染め絵にはいくつかの手法がある。簡単な下絵を描いてそこに直接主線を書いていくものの他に、繰り返し描かれる幾何学模様に上から色を乗せる方法もある。そのときには、版型を用いるのが普通だった。

「ふうん、そうなんだ」

 どんな世界にも、人一倍目立つ人間がいる。豊かな才能に恵まれ、かつさらに高みに登ろうとたゆまぬ努力を続ける者。その背中に人々は惜しみない賞賛の言葉を投げかける。
  でも、それは本当にわずか一握りだけの人間に与えられる栄誉。その他大勢に甘んじてしまった者たちは、掴み損ねた夢を持てあましながら次なる道を模索するほかない。しかしそれは、長く厳しいもの。さらに自分の精一杯を見せたところで、自身に当たる光は一流の人間に与えられるそれとは比べものにならないほどささやかだ。

 そして、今の私も同じこと。いくら店の売り上げが伸びて繁盛しようとも、そこにあるのは結局「商品」に対する評価。当然と言えば当然の成り行きに、どのように自分の中で折り合いをつけていくかが一番の課題だと思う。

 ……それでも、私は必死に頑張っているつもりなのに。

 闇に包まれた長屋の一角が、ただのがらんどうに見えてくる。結局、どこへいても自分には空しさの他に与えられるものはないのか。

 棚の上に飾られた春のひと枝。乾きかけた花弁に指を伸ばした刹那、裏戸の向こうで足音が止まった。

 

<< 戻る       次へ >>

 TopNovel花染めの指先・扉>花なんて、いらない・8