TopNovel花染めの指先・扉>花なんて、いらない・9


「花染めの指先」番外
…9…

 

 

 私はハッとして、音のした方を向き直る。裏からの出入り口になっている引き戸は、かなり立て付けが悪い。それでも出来るだけ音を立てないようにと用心しているのか、そろそろと遠慮がちに開かれた。

「―― あれ、起きていたの?」

 稜は少なからず驚いた様子。それも無理はない、明かりも点けない暗がりで動き回っているのは何とも異様な光景だ。

「え、……ええ。喉が渇いたから、水を飲もうかと思って」

 別に言い訳なんてする必要もないのに、慌てて取り繕うような言葉が出る。

「そう」

 短くそう言うと、彼は持ち帰った荷物たちを上がり口に置いた。そして、あらかじめ準備しておいた水桶で足を洗い、手ぬぐいで綺麗に拭く。その小さな水音が、静まりかえっている部屋に響き続けていた。
  明かり取りのために開かれたままになっている裏戸から、しんと眩しい天の輝きが差し込んでいる。里で暮らしていた頃よりも一回り逞しくなったように見える肩先にその光がほんのり止まっていた。

 私が見るのは、いつも男の背中ばかり。これから先も気が遠くなるほど同じ光景を繰り返し瞳に焼き付けることになるのだろう。そんな人生が辛すぎると思っても、他にたどる道が見つからないのなら仕方のないことだと思う。

「麻未」

 しとねの方へと歩き始めた私を、稜が呼び止める。

「ちょっと表の部屋まで来てもらえるかな? 見せたいものがあるんだ」

 綺麗に片付いた板間に足を踏み入れたとき、ともされたばかりの燭台がゆらりと辺りを照らし始めていた。ひとり分の大きな影が奥の壁に映し出されている。

「ここまで来て、座って」

 妙にかしこまってそう言うのが、何とも不思議な感じだ。先ほどまでうたた寝をしていたからなのだろうか、今もまだ夢の中を漂い続けているような気がする。

「明日は急ぎの仕事も入ってないから、早めに店を閉めてもいいと思うんだ」

 何ごとかと思いつつも言われるままに座した私に、彼はおもむろにそう切り出す。まあ、店をいつ開けて閉めるかということに厳密な約束事があるわけではない。その日その日の客入りの具合や片付けなければならない仕事の都合で、いつも適当に判断していた。この界隈では、どこの店も同じようなものである。

「まあ、……私もそれで構わないと思うわ」

 何気ない感じでそう答えると、彼は口の端だけで淡く微笑んだ。それから、ほつりと行き場のない吐息をひとつ落とす。

「店を閉めたら―― 祭りに出掛けてみるのはどうかな。これだけ周りじゅうで盛り上がっていたら、やはり気になるよね。戻る時間なんて気にすることないから、思い切り楽しんでおいでよ」

 そこまで言うと、彼は後ろに置いていた包みを私の目の前に差し出した。

「そのときは、これを着ていくといいと思うんだ」

 私はその包みに一度目を落とし、それから再び稜の方へと向き直った。でも一文字に閉じたままの口元は次の言葉を発する気配もない。

「……」

 仕方なく包みに手を掛ける。大きさから見て、中身が一揃えの衣であることは容易に見当がつく。でも、どうして? 合点がいかないままに中を確かめ、私は大きく目を見開いていた。

「……これは……」

 まるで春の華やぎをそのまま映したかのような、鮮やかな花色。朱色に黄を落としたような明るい茜は私が特に好んでいた色味だった。

「うん、見本品として店の棚に並んでいたもののひとつ。里に送り返すときにこれだけ取り置いていたんだ。急いで仕立てに回せば、祭りに間に合うかと思って」

 目の前に現れたそれに、稜も眩しそうに目を細める。

「祭りに行くには相応の支度がないとね。麻未はここに来てから本当に良くやってくれたから、そのお礼として受け取ってもらえないかな」

 そうは言われても、このように高価なもの。何だか今の自分には似つかわしくない気がする。

「でも……こんな」

 同じように地染めをし、さらにその上に染め絵を施した反物も、その手間の掛かり具合で驚くほど価値が変わる。今目の前に置かれている品は、希少な染め粉を用いたものであったし、全体にささやかではあるが金粉も散らしてある。この店に置いた見本の中でも、特に値の張る逸品であった。もちろん、一緒に商売をしている稜にもそれがわかっているはず。
  さらに包みの中には、晴れ着に合わせるための黒い帯もあった。それはよく見ると朱色の糸で模様が織り込まれた手の込んだもので、こちらもまたかなり価値がある品であることは間違いない。これを締めることで全体がきりりとひとつにまとまる。

「さあ、鏡の前で当ててみて。絶対に似合うから」

 そんなこと、わざわざ言われなくたって、最初からわかっている。一番大きな姿見の前に急き立てられるように立たされて、薄い寝間着の上から華やかな衣が稜の手で掛けられた。

「ほら、やっぱり。すごく綺麗だ」

 飴色に近い金の髪はその艶やかな輝きを増し、いつも褒められる白い肌もさらに美しく見える。ああ、そうだ。今まで何度こんな光景を思い浮かべたことであろう。自分にぴったりの一枚と出会ったときの満ち足りた気持ちはなにものにも変えられない。

 でも今、鏡に映る私の表情は相変わらず薄暗いものであった。

「どうしたの? 麻未は嬉しくないのかな」

 もちろん、傍らに立つ稜がそれに気づかぬわけはない。想像していたほどの反応がないのが不服なのだろう、それでもそれを強く言葉にしたりはしない。

「……あ……」

 肩先に感じるささやかな重み、丁寧に仕立てられた縫い目に触れたときに私はハッとした。

「これって、……もしかして稜が仕立てたものなの?」

 彼の針仕事の腕が確かなことは知っている。でも今までに仕上げたものは小物ばかり、さすがにきちんとした衣をすべて仕上げた経験はないと彼自身の口から聞いていた。

「え? ……まさか、違うよ。他所に頼んだに決まってるじゃないか」

 そう言いつつも目を逸らす態度が真実をそのまま物語っている。それに……こうして直接羽織った私が気づかぬはずはないではないか。ひと針ひと針丁寧に進められた仕事を見れば間違いない。
  だが、ここまでのものを仕上げるには、途方のない時間が掛かるはずだ。つい半月ほど前までは反物の状態であったのだから、確かに素人の手によるものとは信じられない。

「だけど、これは―― 」

 しかしながら、私にだって年少の頃よりこの世界に関わり続けてきたからこそ手に入れた、揺るぎない自信がある。ひとつの衣、ひとつの作品の伝えようとする「声」。それを指先からはっきりと感じ取ることが出来るのだ。
  最初のうちはそのことも、誰にでも平等に備わっている能力であると信じていた。しかし年齢と経験を重ねるごとに他の人と自分の間の違和感に気づき、そうするうちに「もしや」と思うようになっていったのだ。

 確信を持って見つめてみても、稜はなお素知らぬふりで通そうとする。

「いっ、いいから! それを着て祭りに行っておいで。こっちのことは気にすることないから、心ゆくまで楽しんでくればいい。最初は気が乗らなくても、すぐにその気になるから」

 稜は早口でいろいろまくし立てながら、乱暴に荷物たちを解き始めた。そうしてひとつずつを元にあった棚に片付けていくのだが、その手元は適当に取り繕っているようにしか思えない。何も隠し立てをするほどのことではないのに、どうしてここまでしらを切ろうとするのか。

 ―― でも、私は今ひとつ、何か大切なものを取りこぼしているような気がしていた。

「ええと、……祭りって、稜は一緒に行かないの? 私にひとりで行ってこいって……こと?」

 彼の提案に違和感を覚えたのは、その誘い方に納得がいかなかったからだ。「祭りに行っておいで」と言う他人事のような言葉、どうして「一緒に行こう」と言ってくれないのだろう。

 私の問いかけに、稜は感情を隠したままの顔で薄く微笑んだ。

「俺が一緒じゃ、何かと都合が悪いじゃないか。麻未だって思い切り楽しめないと思うよ?」

 何でそんな風に言うのだろう、本当に訳がわからない。知り合いのひとりもいない場所で、どうやって過ごせと言うの?

「稜だって、祭りには興味があるはずでしょう。だったら、付き合ってくれてもいいのに」

 どうして私は、いつもこんな風に突き放されなければならないのだろう。やっぱり、あの夢の続きに置かれているよう。追いかける相手は変わっても、立場はいつも変わらない。

「そんな風に、困らせないでくれよ」

 稜はまた、ゆっくりと首を横に振った。彼の髪は私のものよりも少し色が薄い。遠目に見ればどちらも同じ南峰の民のものなのだが、近寄って比べればかなりの色味の差があった。

「こっちだって、いろいろ考えた末に出した結論なんだ。今回ばかりは、黙って従って欲しいな」

 そう言いつつ、彼はまた苦しそうに顔を歪める。どうにかして、笑顔を作ろうとするのに、上手くいかないらしい。

「今はまだ苦しいかも知れないけど、早く過去を忘れて欲しいんだ。凱よりももっと夢中になれる相手が見つかれば、前のような麻未が戻ってくるはずだからね」

 一体何を言い出すのかと途方に暮れる私に対して、いつになく饒舌になった稜がさらに続けた。

「お社様の前で誓ったことなんて、少しも気にすることはない。俺たちはあくまでも仮の祝言を挙げただけ、そんなことにいつまでも惑わされる必要はないんだ。祭りには気の遠くなるほどたくさんの人出があるというから、その中にはきっと麻未の気に入る相手がいるよ?」

 

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