私たちが夫婦になることは、周囲から快くは思われていなかった。 従姉弟同士とはいえ、お互いの親はあまり仲が良いとは言えなかったし、何より本家の家長である叔父が難色を示している。私が首を縦に振って提案された縁談を受け入れれば、すべてが上手くいく。体裁の悪い従兄弟同士の婚儀など、すでに決まっているひとつだけで十分だと言わんばかりだった。 しっかりとふたりの意志を伝えたあとも、ことあるごとに話を蒸し返され、どうにか考え直すようにと幾度となく諭される。正直、里を出るまでの半月はどこへいても何をしていても息が詰まるばかりであった。 あのときに私を突き動かしていたものは一体何であったのだろう? そのことを、ふと思い返すこともある。
「私が……前のようになるって?」 仮にも夫という立場にある者から、他の男と縁づくようにと提案される。想像がつくはずもない出来事に、私はただただ途方に暮れるばかりだった。 「何でそんなことを言い出すのよ? 私はこの生活が気に入っているわ、元の自分に戻るなんて何があっても嫌。誰に命令されたって、絶対に従えないわ……!」 ようやく誰からもうるさく干渉されることなく、しっかりと己の二本の足で立つことが出来た。周囲の言葉に惑わされることなく、思い通りの毎日を過ごせることの心地よさ。それは稜だって、同じように感じていたはず。私たちはこの土地に来て、ようやく自分らしさを取り戻したのだ。 ―― それなのに今更、何でそんなことを言い出すの? 「ううん、違う。今のままの麻未を見ているのは、俺には我慢できない。だから考えたんだ、どうしたらいいんだろうって」 全く理解できない言葉を発し続ける稜、でもその真摯な眼差しに私は魅入られていた。彼は冗談で言っているわけじゃない、今この瞬間にも真剣そのものなのだ。 「麻未は今のままだって十分に綺麗だと思う。でも、粗末な衣ばかりに身を包んだ上に控えめな化粧で過ごしていては、自分としても面白くないでしょう。里にいた頃の麻未は、いつでも見惚れるほどに美しくしていた。だけどここに来てからはそんな自分をすべて忘れてしまったみたいだ」 その言葉を聞きながら、私は肩から滑り落ちそうになった衣をそっと手で押さえていた。わずかに触れたその部分からも、言葉にならない想いが伝わってくる気がする。 「やっぱり、……凱じゃないと駄目なんだって、思った。結局のところ、俺は何をしても凱には敵わない。いつだってそうだった、何をしてもそうだった。だから、そんなことはとっくにわかっていたつもりだったのに―― 」 稜はとても苦しそうだった。自分の中にあるものを必死で吐き出しながら、それでもなお感情の波で己自身を締め付けているみたい。だけど、どうして? 何でそんな風になっちゃうの!? その瞬間、私の中で何かがぶちっと切れた。 「なっ、何でっ! どうして、今更、凱の名前が出てくるの! 信じられないっ、何考えてるのよっ……!」 ようやく思った通りの言葉が出て、心底ホッとする。いろんなこと、おなかの中にため込んで、かなり苦しかったんだ。 「笑わせるんじゃないわよ、自分はチャラチャラ他の女のところに通っているくせに。私が綺麗じゃなくなった? おあいにく様っ! そっちこそ、おかしな場所にばかり出入りしているから感覚も変になってるんじゃないのっ!?」 比べられていることくらいわかっていたけど、我慢していた。あっちは自分自身を売り物にしているんだから、そんな人たちと勝負したって仕方ないと思って。でも、こんな言い方ってないと思う。 「だいたいねっ、こっちは本気で仕事しているんだからね。お客様に最高に着飾ってもらうのが本望なのに、自分の方が目立っちゃ商売あがったりでしょう? 悪いけど私、ちょっと気合いを入れるだけで、この界隈の女子なんて誰も敵にならないくらい美しくなっちゃうの。それがわかっているから、あえて控えめにするよう心がけているんじゃないのっ!」 どうしてそんな簡単なことがわからないんだろう、全くもって腹が立つったらありゃしない。 「まっ、……麻未……」 あー、嫌だ。ちょっとこっちが勢い込んだら、すぐに慌ててるし。 「そりゃあね、あんたと凱は一緒にはならないわ。だって、元々が全く別の人間だもの。でも、凱にあってあんたにないものがあるように、あんたにはあって凱にはないものだってあるはずでしょう? なのに何よっ! いじいじと自分勝手に考えてっ! 私をこんな場所まで連れ出しておいて、そんな弱気でどうするのっ!?」 そうよ、そう。私は幸せになるためにここに来たんだ。誰にも邪魔されずに自分だけの人生を歩みたくて里を捨てたんだ。それなのに、何で今までくすぶり続けていたのだろう。稜のことにも腹が立ったけど、それよりももっと自分に怒っていた。 「えっ、……ええと、麻未?」 このままでは私の演説が延々と続くと思ったのか、彼は必死に言葉を遮ってくる。 「ということは、今まで目立たない格好ばっかりしていたのは……」 何、またそのこと? 本当にしつこいわね。 「当然でしょう、ここでの仕事を軌道に乗せるためよ。ずっと忙しくて店を休みにすることもなかったし、朝から晩まで仕事のこと以外を考えられなかったわ。そのことに対して、文句でもある?」 はーっ、いちいち説明しないとわからないのか。面倒だなあ、全く。 「でも、瀬谷様はそうじゃないって。俺が夫として認められてないからだって、そう言われて……」 何それ、商売女の言うことをいちいち真に受けててどうするの? あっちはふらついた男の気持ちを自分に引きつけたくてしのぎを削っているのに。 「そう、あちらさんの言うことを信じたいならご自由に。私は止めないわよ」 ずいぶんと挑発してくれたもんなあ、瀬谷様も。ひとの家のことに首を突っ込んで、何が楽しいのかしらね? まあ、こんな風にごちゃごちゃさせるのが醍醐味なんでしょうけど。 「全く、がっかりだわ。稜がこんなにちっぽけな人間だったとはね。人を表面だけで比べて、薄っぺらいとは思わないの? どうしてもっと深いところまで汲み取ろうとしないのよっ!?」 まあ、私だって似たようなものだけどね。いいのよ、そんなことをいちいち気にしていられないわ。 「いつまでも凱になんてこだわってないでよっ! あんな人、私を選ばなかった時点で綺麗さっぱり忘れたわ。だから、喜んであの女にくれてやったわよ。今となっては、未練なんてこれっぽっちもないんだから!」 そりゃ、かなり腹は立ったけど。間違っても恋しくて泣いたりはしなかった。私にとって大切なのは新しい生活、それなのに肝心の伴侶がこんなじゃどうにもならないわよ。 「私はここでの毎日が気に入っているわ。でも稜はそうじゃないみたいね。私が水仕事で手を荒らしたり、道行く人が振り返るくらいの派手な化粧をしないのがそんなに不服なら、それで結構。別に真夜中に無理して戻ってきてくれなくたっていいわよ? 私はこっちで適当にやるから」 言いたいこと、全部言えたらすごくすっきりした。でも、ちょっとだけ虚しくもなったかな。結局私たちって、瀬谷様の言うとおり「ままごと夫婦」。表面ばかりを取り繕って、本物になることを怠っていた。 「まあ、始まりからしてまともじゃなかったしね。最初からこうなることくらい、覚悟しておくべきだったわ」 愛情から始まった関係じゃない、そんなこと百も承知だったはずなのに。ひとつ屋根の下で当たり前に生活していたら、そのことをいつの間にか都合良く忘れてしまっていた。 まさか……心が半分別なところに泳いでいた男が、適当な言葉を真に受けて私のことを切り捨てようとしてたなんて。そんなこと、想像も出来なかったもの。 「この晴れ着はもらってあげる。少なくとも、これにはあんたの気持ちがちゃんと詰まっているものね。お望み通り、震え上がるくらい美しくなってあげようじゃないの。でも―― そうしたって、私は祭りになんて行かないわ」 口惜しいな、ちょっと泣けてきたかも。私って、すごく可哀想だと思う。 「―― 麻未?」 何よ、今更。気の抜けたみたいな声で呼ばないで。 「もう金輪際、男に振り回されるのはたくさん。だから私は毎日の仕事が終わったあと、ここでひとり自分を磨くことに精を出すわ。何年経っても、何十年経っても、それでも変わらずに美しくいるから。きっと遊女小屋の女子が百人束になって掛かってきても負けないくらい綺麗でい続けるから。だから、そのときになって、私を捨てたことを後悔すればいいのよ。そしたら、ざまあみろって笑ってやるわ……!」 私、ただ腐っているだけじゃ我慢できないから。やるべきことは何でもやるの、少しくらいやり過ぎたって構わないくらいに。そうしてずたぼろになったところで、いいじゃない。うじうじ悩んでいるだけよりも、すっきりすると思うし。 「……え? その……捨てるって、俺はそんなつもりは……」 まだ何か言ってる、本当に往生際の悪い男だわ。 「そんなつもりも、あんなつもりもないと思うわ。稜は瀬谷様にご執心なんでしょう? それとも、他にもごひいきの女子がいる? あちらではかなりの人気者みたいだから、お相手には不自由ないでしょ。お盛んでよろしいこと」 あーっ、私ってかなり下品かも。恥ずかしげもなく、すごいこと言っちゃって。 「まっ、……麻未……」 あら図星? ずいぶん慌てていらっしゃること。 「それは誤解だよ、そんなのってあり得ないから。だいたい俺は、昔から麻未のことだけが……」 その瞬間まで、私は稜に背中を向けていた。きっと今の自分は泣き笑いみたいな変な顔になってるし、それを見られるのも癪だったしね。でも、急にうろたえ出すし、変なところで言葉を濁すし……だから、思わず後ろを振り向いちゃったの。 「昔から、私のことだけが……何?」 うん、そこ。突っ込んでもいいよね? だって、気になるじゃない。中途半端で、言葉を切らないでよ。 「……え、あ……、いや、何でも……」 ほら、また黙っちゃった。もしかして、少し赤くなっていたりする? えーっ、そうなのかなあ……。 「もしかして、稜」 少し意地悪かなと思ったけど、わざと顔をのぞき込んじゃった。慌てて目をそらすけど、彼に出来るのはそこまで。 「今でも、本気で私と夫婦になる気があるの?」 そっぽ向けないように、顔をぎゅーっと押さえつけちゃっているものね。口をへの字にして、すごく不服そうな顔をしてる。 「そっ、……それは麻未が……」 まだ、そんなこと言ってる。だから言ってやったの、こっちからずばっとね。 「私ね、全然その気もないのにこんな場所までついてくるような馬鹿じゃないわよ。どうしてそんな簡単なことがわからないの」 寝る間を惜しんでこんな晴れ着まで仕立ててくれて、今更何を隠そうとするの? 信じるなって言われても、信じちゃうよ。 「……い、嫌じゃないのか?」 いい男がそんな言い方するもんじゃないわよ。そう思ったら、少し笑えた。 「試してみる?」 我ながら、すごい大胆。そして、稜の喉がごくっと大きく音を立てた。
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