今年の夏は終わらない。
九月になってもまだまだ残暑と呼ぶのもはばかられるような強烈すぎる陽射しが、住宅街のアスファルトを容赦なく照りつけてくる。とても日中に外歩きができるような状態じゃない。だけど、よろよろふらふらになってようやくたどり着いた店内は激寒地帯。この悲惨な温度差、毎日のように体感していてもまったく慣れることができない。
「何だ、それはどういうことだ」
そして。こんな氷の監獄に自ら好きこのんで生息している魔王は、本日も低気圧ど真ん中。無駄に長い帽子を被り、デッサン室の石膏像も真っ青な一寸の乱れもない完璧な顔立ちを歪ませている。
「どうもこうもないです。今、お話ししたとおりですけどっ」
だけど、これきしのことで負ける私じゃない。これでも最初の頃に比べたら、ずいぶんと図太くなったと思う。端から見ればただのけんか腰の会話だけど、ふたりとっては当たり前のコミュニケーションだ。うん、これくらいだったら和やかな方だよ。
「花華(はなか)さんからのお誘いなんです、だから断ることはできません」
その名前を口にした途端、店長の暴言がぴたりと止む。ああ、痛快。いいなあ、これってまるで水戸黄門の印籠みたいだ。
―― ええと、ちょっと説明。この「花華さん」というのは、今目の前にいるイケメンパティシエの実のお姉さん。例のキラキラぴらぴら乙女街道まっしぐらのアラサーな御方だ。とは言っても、私と彼女はそれほど仲良しではない。お嬢さんの花音とは何だかんだでよくつるんでるんだけどね。特に幼稚園の夏休み中は、ここは託児所かと思うほどあの子はこの店に入り浸っていた。
「だから、どんな誘いなのかと聞いている」
えーっ、まだ食い下がるの? 相変わらずしつこいなあ。
「内容までは聞いてません、待ち合わせの場所と時間だけを伝えられてあっという間に電話が切れましたから。いいでしょう、ミズエさんが助っ人に来てくれることになってるし。……じゃ、そろそろタイムリミットなので」
そりゃ、前もって承諾を取らなかったのは申し訳ないと思ってるよ。でも、今朝連絡を受けたばかりなんだから仕方ないじゃない。花華さん、容赦ないんだもの。まあ、あの花音のママなんだから納得だけど。
「……おい、ちょっと待て」
開店準備はすべて終わってる。ミズエさんもそろそろ到着するはずだし、何も困ることはないはずだ。それなのにバッグを手に裏口から外に出ようとした私を、店長は先回りして通せんぼする。
「夕方までにはちゃんと戻ってくるんだろうな?」
そんなこと、約束できないよ。どうしても、っていうなら花華さんに直談判すればいいじゃない。そもそも、今日の私には決定権が与えられてないんだから。
「はい、できる限り努力させていただきます」
でもここは、あまり反発しない方が吉とみた。ひとこと言い返したい気持ちをぐっと堪えることに成功すると、自分がとても大人な気がしてくる。
「結衣」
えー、まだ言い足りないの? 本当に懲りない人なんだからなあ。
そう思ってたら、すごい早業で唇を奪われていた。……何か、すごくレトロな表現だけど、まったくその通りなんだから仕方ない。そして、しばし私自身も思考停止。
「浮気するんじゃないぞ」
何言ってるんだよコイツ、と言いたいところなんだけど、何しろ完璧に綺麗な顔で見つめられたりするから、ついついぼーっとしてしまう。
「……いっ、いってきます……!」
はーっ、たったこれだけのことで心臓はバクバク。クーラー効き過ぎの部屋なのに、顔がどうしようもないほど火照ってしまった。
「はぁ〜いっ! 結衣さん、こっちこっち……!」
いや、そんな風に手を振って自己主張してくれなくても大丈夫ですから。むしろ、もう少し控えめにしてくれないかなあ……少なくとも半径百メートルのエリアにいる人たちが振り向いてこっちを見てる。何しろ今日は日曜日で人手が多いからね。これって、かなり恥ずかしいんですけど。
だって、花華さん。いつもに増して「いったい、どうしちゃったの」と目を見張るばかりのコテコテファッション。一足早く「秋」を意識したのかシックな赤を基調とした、それでもなかなかに素晴らしい大輪の花をプリントされたワンピースにレースてんこ盛りなペチコートを重ねて。さらに羽織っているレース編みのボレロにはコサージュがいくつも飾られている。蝶結びのリボンをトッピングしたふわんふわんな巻き髪にはかなりの時間が掛かっていると思われる。
……にしても、この暑さの中で、どうしてそこまできっちり着込めるの……!?
「すっ、すみません! ちょっと遅くなりましたか?」
これでも必死で急いだんだけどなー、やっぱ店長の最後の駄目押しで一気に調子が狂ってしまったみたい。
「いいえ、大丈夫。でも急いだ方がいいわ」
相変わらず、光り輝くような美しさのお姉様。まあ、あの店長の身内なんだから当然のことかも知れないけど、近くに寄るだけで醸し出されるオーラにクラクラしそうだ。
「こんな場所まで呼び出してごめんなさいね。でも今日はどうしても結衣さんの力が必要だったの。私のために、是非是非頑張ってちょうだい」
……は? それって、どういうことでしょうか……?
いきなり両手をがばっと握りしめられて、完璧なカールを描いたまつげに囲まれた瞳でうるうると見つめられたりしたら、さすがに慌てますって。
「私も、お友達から話を聞いたのが昨日の夜中でね。もうっ、いてもたってもいられない気持ちになって、朝一番で結衣さんに電話しちゃったのよっ!」
……そうですね、確かに朝の六時に枕元で携帯が鳴り響いたのには参った。さすがに一瞬だけ殺意を覚えたわ。しかも電話の主として表示されたのが花音だし。そう、あのチビッコ、生意気にもあの歳でケータイ持ってるんだよ。今回はそれを使って花華さんがかけてきたってわけね。
「―― と、言うことで! 早速っ、行きましょうか……!」
待ち合わせしたのは、東京郊外の私鉄沿線のとある駅前。私にとっては初めて訪れる場所だ。大手スーパーや銀行の支店のビルがずらりと並ぶ通りを、花華さんはどんどんと進んでいく。
そして、たどり着いたのは、これまたよくある感じの商店街だった。大小さまざまな店舗がずらりと並んで、まずまずの賑わい。ええと……『秋の大感謝祭』って派手派手な横断幕が至るところに飾られている。風船を手にした子供たちがたくさん歩いてるし、綿菓子やたこ焼きなどの屋台もたくさん出ていた。
「うっわー、おいしそう!」
鼻をくすぐる香りに、思わず引き寄せられてしまう。何しろ、今日は朝からバタバタしていて、朝ご飯も適当に済ませちゃったから。お昼近くなった今では、かなり限界の空きっ腹になっている。
「駄目よっ、今はそれどころじゃないの!」
花華さんは私の腕をがっと掴むと、さらに商店街を奥へと進んでいく。そして目の前に現れたのは、小料理屋のような落ち着いた佇まいのお店だった。……ううん、違う。ここは和菓子屋さん、かな?
「ああっ、ここよ! そうそう、お友達が写メで送ってくれたのと同じだわっ!」
なんか、半端なく感激しているみたいですけど。本当にいったいナニゴトっ!? そう思って確認すると、そこにはひときわ目立つ立て看板が。ええと……『楽々亭*看板商品「三色団子」早食い大会』?
「きゃああああっ! 良かった〜、ほらっ、出場者受付にギリギリで間に合ったわ! ああっ、本当に嬉しいっ! さあさあ、早く行きましょう……!」
……ええと……その、お、お姉さん……!?
確かに、私はそこんじょそこらの人には負けないほどの底なし胃袋を持つ女。いや、これでもうら若き乙女であるし、よくあるフードファイターなTV番組とは無縁の人間だ。……というか、私の場合、ただの大食いとはちょっと違うの。自分の舌が認めた最高の食材じゃないといくら食べても胃が膨れないし、それどころか体調を崩してしまう危険性もある。
だから、「食べ放題」というキャッチフレーズにも自然と慎重になってしまう。今は店長と出会ったお陰でいつでも極上のケーキ(の切れ端)をおなかいっぱい食べられるようになったから、ひもじい思いをすることもなくなったけどね。それまでは苦労に苦労を重ねた人生を歩んでいた。
そして、受付の列に並んでようやく順番が来たところで、またまた「びっくり」が待っていた。
「は〜いっ、こちらに必要事項のご記入をお願いしますっ。あと、参加費のおひとり様千円をこちらでお支払いいただきますので、あらかじめご用意くださいね」
……あれ。何だ、お金を取るのか。
よくよく説明書きを見ると、とりあえず一皿分の金額を払い、食べきれなかった分はお持ち帰りができるそう。そして、もしも可能ならばお代わりはいくらでも自由とのこと。そして制限時間内に一番多くの皿を完食した人が優勝とのこと。
でも、私が驚いたのはそこではなかった。そう、私の目が釘付けになったのは受付をしてくれた女性。この人が、何故か花華さんに負けず劣らずのコテコテファッション。で、……でも、いったいおいくつ!? だってだって、傍らに座っているちっちゃい女の子が「お祖母ちゃん」って呼んでるしっ。でも絶対、孫がいるような年齢には見えないよう……。
「うわっ、もしかしてそのお洋服っ! 幻と言われている××年発売の限定商品じゃないですかっ……!」
とと……花華さん? 何、いきなり反応しているんですか。確かに目の前の方とあなたには同じオーラを感じますけどっ。そして、受付の女性もぱっと目を輝かせる。
「ええ、その通り。よくわかりましたね〜! まああっ、あなたのお洋服も素敵! それって△△デザインの新作でしょう〜とても良くお似合いだわ〜!」
そして、ひとしきり繰り広げられる内容のまったくわからないガールズトーク? 何なのーっ、この人たちっ。違う星の住人みたいだよ!
そうしているうちに、そこに今度はかちっとしたスーツを着込んだ女性が登場。あ、こっちの人は普通だわ。良かった、みんながみんな同じような人たちだったらどうしようかと思っちゃった。
「ママ、困るわ。そろそろ開始時間なの。おしゃべりはほどほどにしてね」
え、ここにいるヒラヒラの方がこの人の「ママ」っ!? ええと、ええと、この人って、どう見ても花華さんと同世代くらいだよね? その方のお母さんってことは……いやいや、これ以上考えるのはやめよう。なんか本格的に頭痛がしてきた。
「そうですか、じゃあ結衣さん、行きましょう。わかっているわねっ、ぜーったいに優勝! 期待しているわ……!」
お店ののれんをくぐると、目の前には「優勝商品」がどーんと飾られていた。そして、私はすべてを悟る。だって、それは……さっきの受付の女性の服よりも今となりにいる花華さんの服よりも、もっともっとコテコテの乙女なワンピとその付属物であるペチコートやボレロに上着、帽子にバッグの一揃えだったのだ。
後編につづく♪ (110226)