TopNovel>水面に揺れて・1


…1…

 

 今が盛りの花の庭と遠く離れたこの場所は、一番陽の高い昼下がりの刻限にあってもひっそりと静まりかえっている。すぐ側まで大館のひさしが伸び、またもう一方からは枝を広げた大木に覆われているため、窓をすべて開け放っても直射の光とは無縁であった。もしも目隠しをして移動させられたら、とても同じ敷地内とは信じられないだろう。
  ―― だからこそ、書庫としては最適なのだわ。
  横にして積み置かれた棚の書物をひとつ手にすると、彼女は満足げにその上に積もった埃を払った。
  陽は当たらずとも四季を通じて風通しは良く、時間を忘れて滞在するにはまたとない空間。誰からも邪魔されることなく過ごすことができる絶好の隠れ家と言えよう。
  勝手知ったるその場所で、棚から棚へと巡りながら目的の品を探す。こんなひとときがいつまでも続いていけばいい。瞳を閉じれば、窓の外で木々の葉が触れ合う音がかすかに聞こえてくる。そうだもう少し、もう少しの間だけ、のんびりと佇んでいよう。
  控えめな色目の装束、袖をたすき掛けにして邪魔にならないようにしている。腰まで伸びた髪も襟足のあたりできりりと束ね、その姿は遠目には下働きに雇われた農夫のようにも見えるかも知れない。
  しかしそれでも構わないと彼女は思っていた。
  年頃を迎えても一向に色づく気配のない娘に両親がかなりの難色を示しているのは、当の本人だけではなく周囲の誰もが知っていることだ。あの人たちは、自分の胸の内に想いを留めていることなどあり得ない。裏表のない性格だと言えば聞こえはいいが、あまりにも明け透けで肉親としては眉をひそめてしまう瞬間が数えきれぬほどあった。
  ―― まあ、それもあとわずかの辛抱ね。
  この日、何度目になるかわからないひとりごとを心の中に落としてから、彼女は再び傍らの棚に手を伸ばしていた。
  と、そのとき。
「……まあ、あなただったの。驚いたわ、奈瑠(なる)」
  ハッとして声のした方を振り返ると、そこには春色の装束を優美にまとった御方がいらした。
  その瞬間まで、まったく人の気配を感じていなかったのに、いつの間にお出でになったのだろう。思いがけない出来事にみっともなく取り乱してしまったが、そのような態度を取ろうと向けられた笑顔は少しも歪むところがなかった。
  艶の良い朱色の髪は煌めきを集めながら貴人の身丈に余るほどに伸びている。美しく紅を引いた口元をかすかにほころばせて、その御方は狭い戸口から穴蔵のように狭く長い書庫の中をうかがっていた。
「あ、……これは。お方様」
  奈瑠、と呼ばれた娘は慌ててその場に膝をついてかしこまった。まさかこのような場所に誰かが訪れるとは思っていなかったので、少しも警戒することもなく過ごしてしまっていたのである。戸口も窓もすべて開け放ってあるのだから、ぼんやりと物思いに浸っているところも実は丸見えだったのだ。
「あら、驚かせてしまったようね。いいのよ、楽にしてちょうだい。それにしても、こんな場所に籠もって今まで何をしていたの?」
  およそこの場には不似合いなお姿、そしてお声。この御方はなにものにも染まることはない。
  西南の大臣家の姫君としてのお血筋が今も心根にしっとりと根付いているように思える。しかし、そのようなことを直接申し上げたら、ご本人はさぞやお困りになるのだろう。
「はい、新しくお出でになった学士様が書のお手本に適当なものを探して欲しいと仰ったので」
  鍵も所定の手続きを取って借り受けたのであるし、自分には何の落ち度もない。そしてそのことは目の前の御方にもとっくにおわかりのことと思う。
「まあ、そうであったの。でもそのような仕事であれば、何もあなたが進んで引き受けることはないのよ。他にも適当な者がいくらでもいるでしょう」
  そこでお言葉が一度途切れ、美しい貴人は小さく溜息を漏らしたあとで再び口元を揺らす。
「陽の高いうちからあなたをこのような場所に閉じこめていては、殿やわたくしの立場がありません。あなたのお父上は、今やこの館一の武官にお成りなのですよ。もっと自信を持って堂々となさい」
  このようなお小言にも、いつの間にか慣れっこになっている。しかし、今日はそれだけに留まらず、もうひとことが付け加えられた。
「それに、他の者は皆もうとっくに出掛けていきましたよ」
  いったい何のことを仰っているのかと、しばらくは思い当たることもできなかった。ややあってから、本日が春の村祭りの当日であったことに気づく。
「あなたも若い娘であれば、楽しみにしていて当然よ。いいのよ、学士様の頼まれごとなど明日に先延ばししてかまわないのだから」
  こちらの戸惑いの表情にお気づきになったのであろう。お方様はふんわりと微笑まれてそう仰る。しかし、奈瑠はその言葉に首を横に振るしかなかった。
「いえ、私は初めから出掛ける予定などありませんでしたので」
  変に取り繕ったようになれば、言い訳がましく聞こえてしまうかも知れない。そうは思ったが、今は心のままをお伝えするほかないと思った。
「祭りなど、少しも興味ございません」
  なんて冷ややかな声なのだろう、もしかしたら自分には「感情」というものがなくなっているのではあるまいか。埃にまみれた床に落とした自分の言葉に静かに後悔していると、お方様はそれには少しも構わぬようにそっとお手を伸ばされた。
「本当に困った娘ね、あなたは。そのようにしていてはご両親もさぞ嘆かれるでしょう。このように美しく育ったのにいつまでも暗がりばかりを好んでいては、それこそ宝の持ち腐れというものですよ」
  滑らかな美しい指が、奈瑠の髪に触れる。
「もう少し手入れをなさいといつも言っているでしょう、朝晩欠かさずに櫛を入れるだけで見違えるはずですよ。この間差し上げた新しい香油はどうしました?」
  この御方は、「月の一族」の領地の一角にある岡のお屋敷の女主人である。その昔は、恐れ多くも遠き都の竜王様の元に嫁がれることが決まっていた身の上で、その後訳あってこちらへお輿入れをされた。この上なく高貴なご身分でありながら、その立場をひけらかすようなことはなく、自分のような使用人の娘にまで分け隔てのない愛情を注いでくださる。
「え、ええと……あのお品は……」
「またどこかにしまい込んでしまったのでしょう、まったく仕方のない娘ね」
  本当はいただいた当日に家族の居室(いむろ)へ戻ったそのとき、目ざとい妹たちにねだられ譲ってしまったのだ。髪を美しく輝かせる香油や丁寧に結い上げたあとに結ぶ飾り紐などは、若い娘たちなら誰でもいくらでも集めたいと願ってしまう品である。
「まあ、よろしいでしょう。でもそのように暇を持てあましていたなら、かえって好都合というもの。実はあなたに折り入ってお話があるの。すぐにここを片付けて、奥の対にお出でなさい」
  ふんわりと花の香があたりに漂っている。それはお方様のお召しものに焚きしめられた香であるとすぐにわかった。
「……え?」
「殿とふたりでお待ちしていますよ、あまり遅くならないようにね」
  衣擦れの音が静かに遠ざかって行ったそのあともしばらく、奈瑠は狭い書庫の中に立ちつくしたままぼんやりとしていた。

 ―― もしや、お方様は最初から自分のことをお探しになっていたのではあるまいか。
  そんな結論にようやくたどり着いたとき、奈瑠は気の進まない足取りで奥の対への渡りを進んでいた。
  歩み行く通路の左右には丹精された中庭が続き、今が盛りの朱花や天真花が雅な美しさを誇らしげに競い合っている。贅の限りを尽くした御庭ではあるが不思議と仰々しくは見えず、その見事に計算された景観には見る者誰もが舌を巻く。
  次の春にはもう見ることのない景色、名残惜しくないと言ったら嘘になる。遠き都で多く愛でられているこの花々は、西南のこの土地が南限。これより南に下れば、地植えで育てることは難しい。
  愛着を感じているのは、何も花ばかりではない。短く剪定をされた枝にぽつりぽつりと今年の命を芽吹かせたばかりの木々も、敷地内を緩やかに流れていく遣り水も、幼き頃から慣れ親しみずっとそばにあったものだ。
  ―― しかし、いつまでも迷っていては始まらないのだわ。
  髪は解いて櫛を入れたが、慌てた手入れではそう簡単に艶めくはずもない。なるべく急ぐようにと言われていたから、衣を取り替えるのも思いとどまった。確かに目立たぬ色目ではあるが、今身に着けているものもそれほど品の悪いものではない。この程度なら館主とお目に掛かるにも失礼には当たらないであろう。
  お方様が仰るように、奈瑠の父はこの広い館にあってとくに御館様の信頼の厚い重臣。もとは田舎暮らしの身の上だと聞いているが、今では堂々の暮らしぶり。食うものにも着るものにも困らない生活をしている。
  彼女はその家の総領娘であり、下にはようやく両手で数えきれるほどの弟妹がいた。末の妹などは昨年の秋に生まれたばかりでまだ乳飲み子。奈瑠はもう十四になっていたから、抱いて歩けば自分の産んだ子だと間違えられそうな有様だ。
  家族は館の南にひときわ大きな居室を与えられていたが、それでも近頃では手狭になっている。すぐ下の弟は、この春から正式に館でのお務めに就くことが決まっていた。
  そろそろ、潮時なのだとわかっている。いつまでもずるずるとぬるま湯の中に浸っているわけにはいかないのだ。そう自分に言い聞かせ、また迷い、もう一度思い直し……この一年ほどはそんな日々を過ごしている。
  だがもうひとつ、揺るぎない事実がある。この地は奈瑠にとって「終の棲家」には決して成り得ぬ場所。ひとときを過ごしたとしても、やがて戻るべき所へ去らねばならぬ。
  頼りなく光に透ける金の髪、淡く白すぎて気味が悪いと言われる肌。ここ西南にあって西南の民ではない己の異形さが、敏感な年頃になった彼女の心を絶えず責め立てていた。
  十四を迎えた春、柔らかな陽射しの当たる障子戸の向こう。そこで待っていたのは、あまりにも思いがけない提案であった。

 

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