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「え、ええと……何故そのようなお話を私に」
美しく調えられた表の間は、普段の生活ではおよそお目に掛かることの出来ない装飾やお道具で満たされている。すべてが目映いばかりでとても直視できない有様なのに、それにも増して上座にいらっしゃるおふたりの輝かしいお姿といったら。
使用人たちの間では「月の御方」と呼ばれている今の御館様は西南の大臣様の覚えもめでたく、まさに向かうところ敵なし。さらにご気性はどこまでも穏やかで、きめ細やかな心配りはご領地の隅々まで行き届いている。
その上、この妖艶なお美しさと言ったらどうだろう。先ほどのお方様とおふたりで並ばれると、その輝きで燭台の灯りすら不要になるのではと思えてくる。一番上のお世継ぎ様は奈瑠よりも二歳も年上だというのに、そのような大きな御子がいらっしゃるとは到底思えない。どうしてこのようにいつまでも若々しいのだろう。
こうなるともう溜息の他は出てこないが、おふたりがこの上なくお似合いだということだけは間違いない。
「何を言う、それほどまでに驚くことではないだろう。私たちの息子、犀月(セイゲツ)と一緒に都まで使いに行って欲しいと申しただけではないか」
御館様の手の内で扇がひらりと空を舞って開き、そこから甘い香りが漂ってくる。
「お前が誰よりも適役だと思ったから、こうして直々に頼んでいるのだ。どうかな、悪くない話だと思うのだが」
「そうですよ、奈瑠。殿の仰るとおりです」
傍らのお方様もにこやかに相づちを打たれる。
「あなた以外にこの大役を任せられる人間がいると思って? 少なくともこの館で見つけることは困難ですよ」
あまりにきっぱりと言い切られてしまい、こちらとしても身の置き所がなくなってしまう。仕方なく俯いてみるが、今度は磨き上げられた板間までがキラキラ目映くて目がくらみそうになる。
しかし、今はその輝きにも惑わされている場合ではない。
―― 何故、私がそうような……。
疑問の言葉はあとからあとから溢れてくるが、残念ながらそれらを上手く言い表すだけの才を奈瑠は持ち合わせていない。賑やかな両親の影に隠れて言葉も少なくほとんど目立たぬままで過ごして来た代償が、このような場面で表れてしまう。
「本来なら、まずはお前の父に話を通すのが筋であると思うが、あれがまた大袈裟に騒ぎ立てると面倒なことになるからな。すべては内々に進めたいのだ。それに何より、私も燈花もお前の承諾を得るのが一番難しいと思っているのだよ」
御館様がそう仰れば、続けてお方様も笑いを堪えるように口元を袖で隠しつつ続ける。
「そうですね、本当に玄太は何を言い出すかわかったものではありません。あの果瑠がいくらなだめたところで収まりがつかなくなるでしょう」
おふたりが顔を見合わせて笑いを噛み殺しているさまは、あまり喜ばしいものではない。仮にも自分の両親なのだ、このような噂話であればもう少し控えめに、できれば自分の耳に入らないところでしてほしいと思う。
まあそうは言っても、あの父では仕方ない。この地にあっては異形の者であり、その上に山のような大きななりをしていて、しかも態度までが大きい。あれでは視界に入れないでくれと言っても、無理な話だ。
一体どうしたら、あんな風に突き抜けた生き方ができるのだろう。きっと、自分には一生わかることはないだろうと思う。
「し、しかし、そうであってもこのたびのお話は……他にいくらでもふさわしい方がいらっしゃると思います。その、……とても私などに務まるお役目ではございません」
自分は使用人の娘であり、目の前にいらっしゃる方々とではあまりにも身分が違う。だから、本来ならばご命令に異を唱えるなどあってはならないことである。
だが今回だけは、何があっても首を縦に振ることなど出来ない。だから、このようにしてなけなしの勇気を振り絞っているのだ。
―― 私が、こちらの若様のお供で都へ? しかも、ふたりきりでなんて……
何とも乱暴な話だと思う。とうに元服も終えられ、もともとご学友であった同じ年頃の者たちが幾人も侍従についている方なのである。その中から特に腕の立つ者を選ぶというのが、誰から見ても妥当な考え方だろう。
「いや、このたびのことはあまり目立つようにやっては良くないのだ」
御館様はまた首を一度横に振ると、そう仰った。
「今、都は混乱の中にある。ようやく竜王様一の姫様の婚儀が執り行われ、表向きは落ち着いたように見受けられるが、まだまだ不穏な空気が一掃された訳ではない。今回の務めも本来なら私が直接出向くべきなのだが、時期が悪すぎるということで仕方なくあれに託したというわけだ」
古くから「月の一族」と親密な間柄にあるという竜王様の側近のひとりに渡すという信書である。他の誰にも悟られることなく役目を果たすには細心の注意が必要になるだろう。
続いてお方様も言葉を添えられる。
「いろいろ思案した末に、都詣の人に紛れてしまうのが一番かと思ったの。あなたと犀月ならば年回りもちょうどいいし、仲の良い夫婦(めおと)に見えるでしょう」
「……え……」
今度こそ、身体中から血の気が引いてしまった気がした。ぎょっとして顔を上げると、お方様は悠然とした微笑みで仰る。
「ほほ、あくまでも表向きは、ということですよ。あなたなら落ち着いているし、あの犀月を上手く舵取りしてくれるでしょう。館にいる他の若い者たちは浮ついているばかりで役に立ちません」
そのようなことまでお考えになっていたとは、まったく気づかなかった。このように荷の重すぎるお役目、自分にはとても果たせそうにない。そのことをはっきりとお伝えしたいのに、上手い言葉が浮かんでこないのだ。
「それに奈瑠、母上から聞きましたよ。あなたは近々、本気で南に下るつもりなのですって? それならば、その前に一度都に上がっておくのもいいと思いますよ。この先はこのような機会も望めなくなるでしょうし」
「そうだ、思い切らないとなかなか行けない場所でもあるからな。百聞は一見にしかずと言うではないか、一生の自慢話になるだろう」
もともとがとても仲の良い方々なのだが、このように次々と矢継ぎ早に話をされてはたまらない。その言葉たちを拾い集めるだけで精一杯で、とても他のことにまで頭が回らなくなる。
「さあ、これで話は決まった。明日にでも出立してもらわないと、期日までに信書を届けることが出来なくなる。とにかく内密に頼むよ、お前ならば誰彼となく言いふらすことなどないと信用できるが……」
もうすっかり話は終わったとばかりに、御館様が腰を上げられる。
「先ほどから客をひとり待たせてあるんでね。すまないが私は先に失礼するよ」
こちらはまだ話したいことの半分も口にしていないというのに、なんと言うことか。そうは思っても、未だに頭の中で考えていることが言葉にならない。
そうしているうちに、今度はお方様もゆっくりと立ち上がられ奈瑠の前にお進みになる。
「必要な衣などはこちらで用意しましょう。その着物もとても品の良いものだけれど、あなたにはもっと華やかな色目の方が似合うわ。前からとても気になっていたの、良い機会だから顔映りなども見ながら一緒に選んでさしあげましょうね」
その何とも嬉しそうなお顔に、思わずさっと後ろに身を引いていた。
「いっ、いいえ! そのようなこと、とんでもございません。それに私はまだ、このたびのお話をお受けしたつもりは……」
とにかくは一刻も早くこの場所から退座して、そのあとは居室の一番奥の部屋にでも籠もってしまおう。内側からつっかえ棒をして入れないようにしてしまえば、御館の方々も家族もどうすることも出来まい。こちらの言い分をまったく聞き入れてもらえないのだ、実力行使に出るしかないじゃないか。
「なりません」
しかし、お方様はようやくの勇気で絞り出している奈瑠の言葉をぴしゃりとはねつける。
「あなたが考えていることなど、わたくしにはすべてお見通しよ。勝手な真似はさせません、さあさあ早くこちらにいらっしゃい」
そのまま襟首をぎゅっと掴まれてしまえば、もう逃げることなど出来ない。
細くたおやかなお身体からはとても想像できないほどの強いお力、本気になれば座したままの奈瑠を引きずって歩くことも可能かも知れない。
そうなのだ、こちらの御館の方々はただ権力の上にあぐらをかいているようなでくのぼうとはわけが違う。お若くしてこの世の地獄を味わったこともあるおふたりなのだ。当時の話は奈瑠も父から繰り返し聞かされている。父は御館様と最果ての地で出会い、そのご縁でこの館に出仕することになったと聞いている。
「し、承知いたしました。お言葉には従いますから、どうかお放しください……!」
これではまるで悪戯をして叱られている子供のようではないか。まさかこの歳になって、しかもお方様からこのようなことをされるとは思わなかった。
「そう、わかればいいのよ」
その瞬間、お方様の口元に浮かんだのは間違いなく不敵な微笑みであった。
奈瑠が再び奥の対を出る頃には、もう日がとっぷりと暮れていた。確か招き入れられたのはまだ陽も高い頃だったのに、何と長居をしてしまったことか。
その間にはもちろん何度もいとまを申し入れた。奈瑠は御館務めをしていない代わりに、弟や妹の世話をしている。自分がいつまでも戻らなければ、乳飲み子を抱えた母が途方に暮れてしまう。そう言うと、すでに使いの者をやってあるから平気だと仰るではないか。
―― それではもしや……今回いただいたお話のことも伝えられているのではないか。
刹那、両肩にずっしりと重い荷を背負わされた気分になる。もうこのまま逃げ延びることなど不可能なのか。ああ、もう少し早くに両親の里へと戻ってしまえば良かった。あちらに行けば両親が家族同然に付き合っている者がいる。仕事の口などいくらでも探してやると言われていた。
重い足取りで進みながらふと視線を丘の下へと泳がせる。この館は領地で一番の高台に建っており、周囲の集落をぐるりと見渡すことができた。ひときわ明るく照らし出された一角は、村祭りの社だろう。この先も夜通し皆が歌って踊って賑やかに過ごすのだ。
―― 若様も、あの灯りの中にお出でなのだろうか。
正直、あの方とは満足に言葉を交わしたこともなかった。幼い頃まで遡ってみても、それは同じことである。若様の周りにはいつもたくさんの子供たちがいて、とても近づけるような雰囲気ではなかった。もちろん、奈瑠自身もそのようなことは望んでもいなかったが。
彼女はすべての悩みを振り払うように大きくかぶりを振ってから、また歩き始める。
と、そのとき。
すぐ先の木の枝が、大きく音を立てて揺れた。
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