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奈瑠が生まれたのは、両親がこの地に移り住んでから一年と少しが経った頃。人々が花の季節を待ちわびる浅い春だった。
南峰の民の血を強く受け継ぐ我が子が生まれたことで、父のはしゃぎ振りは半端なかったらしい。一滴の酒も入らぬうちからすっかり酔いが回ったかのような赤ら顔で館内を闊歩して騒ぎ立てたことは、未だに使用人たちの間で語りぐさになっていた。あまりにもその話を繰り返し聞かされ続けたから、今ではその光景を自分の目で眺めていたかのように思い浮かべることが出来る。
まあ、それも仕方のないことなのだ。願うことも難しかった自分にそっくりな子が生まれたのだから、喜ぶなと言う方が無理な話だろう。奈瑠の母は半分西南の血が流れている「あいの子」。そうなればどんな相手と交わろうと、生まれてくる子もいくらかは西南の特徴を持っているのが当然なのだ。
西南のこの地では生粋の南峰の民が本当に珍しく、ことに生まれたばかりの赤子などそう見られるものではない。よって当時の奈瑠はさながら見せ物小屋の珍獣状態、小さな居室には連日たくさんの見物客が訪れていたと聞いている。
鬼のように厳つく見る者を圧倒する迫力の父と素朴な田舎娘の母の子とは思えぬほど目鼻立ちが整っていたことも、人々の強い関心を誘った。聞くところによると、奈瑠の祖母に当たる人がかなり美しい人であったらしい。母も物心つかぬうちに亡くなってしまった方だから、その面差しも勝手に想像するほかないのだが。
「不思議なこともあったもんだねえ、まさかこのようなかたちで母さまに再会できるとは思ってもみなかったよ」
折に触れ、母は感慨深げに奈瑠の金の髪を撫でた。その手のひらの温もりは限りなく親愛に満ちたものであったのに、そうされるごとに何故か突き放されるような悲しみが伴った。
―― 私も早く、他の皆と同じようになりたい。
今は色の薄すぎる髪も肌も、年を重ねるごとに少しはマシになっていくのだと信じていたような気がする。その願いがあるうちは、まだ耐えることができた。
物珍しげな視線を奈瑠に浴びせかけてくるのは、何も大人たちだけではない。いやむしろ、自分と同じかそれよりもいくらか年長の者たちの方があからさまな態度を見せていた。
乱暴な男子たちは奈瑠を見ると近寄ってきて、棒で突いたり髪を引っ張ったりする。それならば女子の中に逃げ込めばいいと思うだろうが、こちらもこちらであまり居心地の良いものではない。やたらと大人たちからちやほやされる異郷の娘を快く迎え入れてくれるほどの懐の深さが、残念ながら当時の彼女たちにはなかった。
せめて似たような外見の者が、あとひとりふたりいてくれればまた違ったのだろうが、生粋の西南の民ばかりが住まう土地では、どこまでも余所者として生きるしかない。
両親もそんな娘を内心ではかなり気にしていた様子だが、すべては本人の気持ち次第だと余計な口出しはしなかった。あとから生まれた弟や妹も、皆揃って西南の血を強く受け継いだ者ばかり。そのことも奈瑠をさらに孤独にさせた。
皆が大人になり、以前とはかなり境遇が変わってきたとは思う。だが、そうは言っても、長年のうちに刻みつけられた心の傷が簡単に癒えることはない。
いつの頃からか奈瑠は、早く両親の元を離れることができる年齢に達しこの館を去ることのみが己の幸せだと信じ込むようになっていた。
その先に誰かがいる、そう思った瞬間に身体がひとりでに細道の端へと飛び退いていた。そのまま頭を深くたれて、待機する。夕闇の向こうから細い夜の気が流れ込んで、念入りに櫛を入れられた髪が柔らかく舞い上がった。奈瑠はそれに気づくと慌てて手で押さえる。
木陰からちらりと見えたのは男物の装束、しかもかなり品の良いものだった。己よりも身分の高い方に対しては、館の内外を問わず常に道を譲るのが当然。誰もがそのことを心得ているのだから、あとは相手が通り過ぎてくれるのを待つのみであった。
まったく運の悪いことだ。わざわざ人目を避けるために遠回りの裏道を選んだというのに、今日に限って誰かと鉢合わせする羽目になるなんて。
もちろん、こちらのような広い御館には相応の使用人が置かれている。そのすべてと出会わないように敷地内を歩くことなど、到底不可能だ。そうはわかっていても、奈瑠はやはり悪あがきのようにできる限りの努力を試みてしまう。これはもう、修正のしようのない習慣のようなものであった。
しかし、どうしたことだろう。大股で進んできた足音が、奈瑠の前でぴたりと止まる。
「……?」
しばらくは辛抱強くそのまま待機していたが、一向に立ち去る気配がない。何か言葉を掛けられればそれに従うまでだが、それもないので困り果ててしまった。
とうとう思いあまって顔を上げてしまった奈瑠は、自分を少し高い場所から見下ろす双の瞳に息を呑んだ。吸い込まれそうな濃緑の輝き、そして燃えるような朱色の髪が西南の民の特徴をこれでもかと言うほど見せつけてくれる。
「いつまで、こんな風にしていても埒があかないと思うけど」
別に苛立っているというわけでもないようだ。それどころかむしろ、こちらの反応を楽しんでいるようにすら見受けられる。それが証拠に、彼の口端は少し上がっていた。
「今更、他人行儀もないでしょう。この先しばらくは上手くやって行かなくてはならないんだから」
言葉に含みを持たせてこちらの出方を待っているのか。そのことを悟るまでにもまたいくらかの時間が掛かった。とにかく今日は思いがけないことばかりで気持ちが動転している。自分の中では一年分に相当するとも思われる物言いもしたし、すでに精神状態はギリギリいっぱいのところまで来ていた。正直、これ以上は口を開くことすら億劫に思えてくる。
しかしここで負けるわけにはいかない。そう思った奈瑠は自分の持つすべての気迫で目の前の人を真っ直ぐに見つめ返した。
「何のことを仰っているのか、私にはまったくわかりません」
館の若い者たちは皆、着飾って祭りに出掛けていったと聞いていた。それなれば、この人がその中にいないわけがない。いやむしろ、先陣を切って賑わいの中に乗り込んで行くに決まっている。楽しいことや面白いことには真っ先に飛びつく、いつもいつもそうであるのだから。
「でも、もう決まったことでしょう」
季節を先取りしたかのような、涼しげな浅黄の衣。ともすれば安っぽく見えてしまうそれも、この方にまとわれればしっとりと高貴な逸品となる。銀色に浮き出た袖の地模様も、派手すぎずしっとりと馴染んでいた。この場所はちょうど気の通り道であり、その流れにふたりの袂は同じ向きに揺れていく。
「今更、覆せることじゃないってことくらい、君もわかっていると思うんだけどな」
勝ち誇ったような表情でそう言いきると、彼はまた一歩こちらに近づいてくる。そうなれば、つられて後ずさりするまでであるが、残念ながらこの場所は崖っぷちで思い切って動くことは出来なかった。
―― そのことをご承知の上で、困らせてやろうと思っていらっしゃるんだわ。
奈瑠は幼い頃からこの御方がたいそう苦手であった。もちろん、ご当人に何らかの非があるわけではないということは承知の上であるが、お側に寄ることはおろか遠目に視界に入るだけでも気に入らない。
そんな感情を決して悟られぬようにとわざわざ距離を置いて過ごしているというのに、どこからか視線を感じて振り向くと必ずこの御方がそこにいらっしゃる。もしかするとそれは奈瑠だけの勝手な思いこみであるかも知れないが、たびたびそのようなことが重なるからますます嫌になった。
「いいえ、ひとつだけ方法があります」
どう考えても自分の力では到底動かすことの出来ない大きな権力がある。だが、それもほんの少しばかりやり方を変えれば、驚くほどに簡単に揺るがすことが可能だ。目の前の御方もそのことをとうにご存じではないのか。
「若様ご自身が、この決定に異を唱えてくだされば良いのです」
奈瑠としてはその言葉も必死の決意の元に絞り出したものであった。普段から自分の意見を自由に論じることの出来る者なら容易いことでも、彼女にとっては岩場の高い場所から湖に飛び込むほどの勇気が必要なのである。
「相変わらず面白いことを言うね」
ゆくゆくはこの館の主となることが決まっている御方。御父上、御母上から受け継いだのは類い希なるお美しさだけではなかった。御教育係となった学士様が舌を巻くほどの聡明さ、そして優れた人徳までをも持ち合わせている。
しかし、当のご本人はそのことをあまり良くは分かっていないご様子で、あまりに飄々と過ごしていることに御館様やお方様、そして重臣たちもが揃って眉をひそめていた。
このたびの都へのお役目も、あるいはそのような浮ついたお気持ちを真っ当な方向に正そうという試みからなのかも知れない。
「でも残念ながら、僕にはその意思がないから」
そう仰って浮かべる妖艶な微笑みは、今日昼下がりの奥の対で幾度も見上げたものよりも美しく感じられた。
「ということで、君にも諦めてもらうしかないってこと」
どうして、このように困ったことを仰るのだろう。いつも周囲の者たちに接しているときと同様に、からかっていらっしゃるだけなのだろうか。それにしては、たちの悪い冗談だと思う。
「いいじゃない、しばらくの間は仲良く行こうよ。きっと、楽しい旅になるよ」
―― いったい、御館の方々は何を考えてこのようなことをお決めになったのだろう。
単なる思いつきで振り回されては、こちらは予定が狂って良い迷惑だ。しかし、それでも使用人の娘という立場であれば黙って従う他はない。この先も他の家族はこちらの館のお世話になるのだ、そう思えば大人しく言うことを聞いておいた方がよいのは分かっている。
―― でも、……しかし。
足下にぽつぽつと続くのは、昼の光を集めた灯り花。それが流れるように谷底まで白い帯となって続いている。
その輝きを目で追っているうちに、気がつくと陽気な夏の主はどこかへ消えていた。
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