…4…
いつの頃か一度、若様からもひどい仕打ちを受けたことがある。
もしかしたら二度三度と似たようなことがあったのかも知れないが、奈瑠の心にはそのひとつの記憶だけが今も鮮明に焼き付いていた。
ことの発端がどこにあったのかはわからない。いつものように他の子供たちからは離れた場所でひとり遊びをしていたところを乱暴者たちに見つかり、慌てて隠れた。そこは御館の中庭。色とりどりの花が咲き乱れる間を遣り水が流れる、それはそれは美しい場所である。
小さな低木の影に、そっと身を潜めた。こうしていれば追っ手に見つかることもない。その予想通りに大勢の足音は呆気なく通り過ぎ、奈瑠はホッと胸をなで下ろしていた。
安堵のため息をひとつ落としたあとに、初めて気づく。緩やかに流れる水面には自分の顔が映っているではないか。そのいつもながらに頼りなげな姿の情けないこと、ようやくほころんだ心も再び凍り付いていくようであった。
―― どうして、いつまでもこのままなのだろう。
背後の青く染まった天とあまりに対照的な金の髪、そして水の中に溶けていきそうな蒼い眼。悪戯っ子たちの罵声からやっとの想いで逃げてきた今だから、さらに忌ま忌ましさが募る。
そして、口惜しさを逃す手段も思いつかずその場に座り込むと、木の根元に置いた手のにひやっと冷たいものが当たった。日陰になっているためにぬかるんだままの土、手のひらをこちらに返すと赤茶に輝くそれは意外と美しいものに思えた。
―― せめて、私の髪がこんな色に変わったらいいのに。
いったいどうして、そのような行動に出たのかはわからない。自分の衣や身体を故意に汚す行為は悪いことだと知っていたし、普段の奈瑠であれば到底考えにも及ばないことだったと思う。とにかく気づいたときには、髪全体に泥を塗りたくっていた。すべてが同じ色に染まって満足したところで、今度は腕や脚にも塗りつけてみる。
そうだ、どうしてこんな簡単なことを今まで思いつかなかったのだろう。布染めには土絵の具と呼ばれるものを用いることもあると聞いている。こんな風に毎日泥を髪や身体に塗りつけていれば、あるいは今よりいくらかマシな姿に変われるかも知れない。
その頃は、もう髪を背中の半分を覆う長さまで伸ばしていた。その毛先から、ぼとぼとと泥水が衣に落ちていく。それでも奈瑠は水面に映る自分にうっとりと魅入っていた。ああ、そうだ。いつでも皆に隠れてこうしていればいい。願うだけでは何も変わらない、だから自分から行動を起こさなければ。
「何をやっているんだ! ……馬鹿っ……!」
と、そのとき。
急に背後から怒鳴り声がしたかと思うと、次の瞬間には頭上から大量の水が降ってきた。しばらくの間は何が起こったのかもわからずに呆然としてしまう。ここ、海底の地では「雨」と呼ばれるものはない。肌が湿るほどに気が水を含むことはあっても、それが束になって天から落ちてくることなどあり得なかった。
「……え……」
ようやくかすれる声を発することができたが、声の方を振り向いて、また身体が固まってしまう。そこに仁王立ちになっていたのが、この御館の跡目殿。奈瑠よりはふたつ年上である彼は、すでに他の子供たちと日の中に遊びに興じることは許されず、学術に武術にと様々な師と向かい合う毎日となっていた。
しかし、今こちらにいらっしゃるということは、また稽古の最中に逃げ出してきたのだろう。彼は憎しみに溢れた眼差しで奈瑠を見下ろしていた。
「そんなことをして何になる! お前が西南の民になどなれるはずはない、これ以上庭土を無駄にするのは僕が許さないぞ……!」
若様の手には水桶があった。それで遣り水をすくい、躊躇いもなく奈瑠に浴びせかける。あまりのことに驚きすぎて、しばらくは泣き声を上げることすら忘れていた。
三度、四度。いや、もっと多く続けられただろうか。気づけば、奈瑠の身体は元通りに白く頼りない色に戻っていた。
「わかったか! 二度と馬鹿な真似はしないことだなっ……!」
今までにも、館に住まうあまたの子供たちから理不尽な態度を取られたことは数え切れないほどあった。しかし、さすがにここまで乱暴な真似をされたのは初めてである。いくら相手が御館の若君であったとしても、やっていいことと悪いことはあるはずだ。それはわかっていても、抗議の言葉も浮かんでこない。
言いたいことをすべて吐きだして満足したらしい若様がその場を去って行ってから、ようやくほろりと涙がこぼれた。自分が情けなくて情けなくて、いったい何に対して憤っているのかもわからなくなる。
そのまま濡れた髪も衣もそのままに、泣きながら家族の居室に戻った。もちろん、両親は飛び上がらんばかりに驚いて、いったい何があったのかと奈瑠に問いただす。しかし彼女は何を聞かれても決して答えず、ただただ大声で泣き続けた。
―― たぶん、当のご本人はまったく覚えてはいらっしゃらないと思う。
とうに過ぎ去った遠い日の出来事を未だに執念深く記憶に留めているのだと知ったら、果たしてどんなお顔をなさるだろう。いや、あの御方の性格から考えれば、すべては初めからなかったこととして片付けてしまうに決まっている。
御館の跡目としての重圧を両肩に背負わされ、頭を上から押さえつけられ、当時の彼はかなり苛立っていた。その怒りの捌け口が自分に向いたのだと思えば話が早い。いちいちそのようなことを根に持っていては、使用人の子としてこの館で生きていけないのだ。そのことをはっきり認識しなければ、何もかもが上手く行かなくなる。
だから、自分もすべてを忘れなければならないのだ。ひどい仕打ちを受けたあとに、さらに気持ちが臆して人前に出られなくなってしまったことも、あの御方の責任ではない。
そう……思い切ることができたと、ずっと信じてきたのに。
その後もあてどなくのろのろと歩き回り、ようやく家族の居室にたどり着いたのはずいぶん遅くなってからだった。幼い弟妹たちはすでに寝入ってしまったのだろう、普段の賑やかさが嘘のように辺りは薄暗く静まりかえっている。
「おかえり、奈瑠」
どうやって、こちらの物音に気づいたのだろう。まるで木戸の向こうからすべてが見えていたかのようなさりげなさで、母が庭に出てきた。
「父ちゃんは今夜が宿直(とのい)で正解だったね。お陰で少しはのんびりと旅支度ができそうだ」
今まで水仕事をしていたらしい、前掛けで拭いている手が赤く濡れている。奈瑠の母は小柄で、でもとても大きな心を持った女子であった。何かと喧嘩っ早く一度騒ぎ出すと手の着けられない有様になる父のことも上手にあしらい、大家族をしっかりまとめ上げている。
思いがけずに館務めをすることになった父にこの地に連れてこられてもまったく臆することもなく、慣れない環境にもすぐに馴染んでしまったと聞いている。御館様やお方様とも打ち解け、館内での信頼も厚い。
「なんて顔をしているんだ、未だに納得がいってないということかい?」
なかなか口を開かぬ奈瑠に対し、母はどうかするとぶしつけにも思える言葉をどんどん投げかけてくる。しかしその響きの中には、たとえようにない愛情が溢れていた。
「その……母上」
あまりかしこまったいい方をされると虫酸が走ると言われつつも、いつの頃からか奈瑠は母のことをそう呼んでいた。誰に教えられたわけでもないのに、言葉遣いも自然と改まっている。もう少しくだけても良いのにと自分でも思いつつ、どうにもならなかった。
「おやおや、今更お話を断ろうなんて思ってるんじゃないだろうね」
母には奈瑠の心内など、とうにお見通しだったらしい。彼女は大袈裟に首をすくめると、自分よりもよほど上背のある娘の肩を軽く叩いた。
「あたしで代われるもんなら代わってやりたいが、そうも行かないだろう。御館様にも何かお考えのあってのことだろうよ、せっかくだからこのままお話に乗っかったらどうだい?」
最初からこんな風に説得されるだろうなとはわかっていた。御館様もお方様もお人が悪い、奈瑠が母の言葉に言い返せないのを知っていてその役目を任せたのである。
「……でも……」
「どうせ、このたびのお務めが終われば、お前は小助や阿見の元に行っちまうんだろ? だったら、そのあとのことを気に病むこともないじゃないか。気楽に都見物でもしてくればいいだろう」
こちらが言うことを先回りして、迷いの芽を次々に摘み取ってしまう。これでは、いつの間にか言い返す言葉がなくなってしまうではないか。
「若様だって……私と一緒なんて本当はお嫌なのだと思います」
だから、さっさと断ってくれればいいと思うのに、どうしてそうなさらないのだろう。自分の気持ちを逆なでするような態度ばかりを取る方のご本心が、まったくわからない。
「都まではどんなに早く歩いても三日四日は掛かるでしょう、天候の具合によってはもっと日を見なくてはならないかも知れません。そんな長い道のりを……私には荷が重すぎます」
いつになく自分を曲げようとしない娘を、母は眩しそうに見つめている。どんなに思い病むことがあったとしても、最後には必ずすべてが上手く行く。そう信じ切って今までの人生を歩み続けてきた人なのだ。
「……ま、いいじゃないか。嫌になったら、途中で引き返しておいで」
そう言って、母はにやりと笑う。
「そうなったって、誰も文句は言わないはずだ。お前の他に適材がいないと言われたんだ、それを信じるほかはないだろう」
細い気に乗って、遠い祭り囃子がこんな丘の上まで聞こえてくる。そのかすかな音色を辿るように、奈瑠は静かにまぶたを閉じた。
「何も起こらないうちからあれこれ案じるなんて、馬鹿げたことだよ。失敗したらそのときに初めてその打開策を考えればいい。それで手遅れなんてことは、決してないんだからね」
それから母は奈瑠の髪を一房手にすると、それをとても愛おしいもののように短い指に絡め取った。
「お前は、あたしと父ちゃんの娘だ。何があったって、へこたれるんじゃないよ」
―― この人には、たぶん一生掛かっても敵うことはない。
しかし、その瞬間に奈瑠の口元からこぼれ落ちたのは、柔らかな安堵の溜息であった。
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