TopNovel>水面に揺れて・5


…5…

 

 初めて妻問いの話が奈瑠に舞い込んだのは、正月が来ればようやく十三を迎えるという年の瀬。今を遡ること一年半近くも前のことであった。
  この海底の地では男子も女子も十三で成人となり、一人前の大人として扱われることになる。近年では人々のものの考え方も変化しており、誰も彼もがその歳で所帯を持つ覚悟を固めるわけではなくなった。だがそうであったとしても、その年齢に差し掛かれば否応にも周囲は騒がしくなってくる。
  そのことは承知していたつもりでも、いざとなるとまったくもって心の準備がされていなかった。
  もちろん、あの両親であるから、当の本人以上に大騒ぎをしたのは言うまでもない。ただ、方違えで御館にお出でになったというそのお客様が奈瑠を実年齢よりもいくつも上に見ていたことがわかり、程なく申し出そのものが取り消された。
  まさか我が身にそのようなことが降りかかるとは露にも思わずに過ごしていた。その「事件」でかなり肝を冷やした奈瑠は、自分が幼い頃とは別の好奇の目に晒され始めていることを嫌と言うほど思い知った。

 ある一定の年齢になれば、男子も女子も相応の分別というものがついてくる。以前のように顔を合わせるたびに「余所者」との罵声を浴びせられたり、あからさまな嫌悪の眼差しを向けられることは減ってきたが、そうであってもやはり他の皆とはひとり外れた存在であることには変わりない。
  同じ年頃の娘たちのように浮ついたところもなく大人びていた奈瑠は、良き妻として夫を陰で支えることが出来ると勘違いされるのだろう。実際はすべてにおいて気後れしているだけなのに、他人はいつでも物事を表面でしか捉えようとしない。
  その後も縁談話は絶えることがなく、そのたびに断る理由を探すのが次第に億劫になってきた。どうして、そっとしておいてくれないのだろう。ただ静かに人目を避けて生きていたいだけなのに、この地ではそれを誰も許してくれない。
  館仕事の忙しい母に代わって幼い弟妹の世話に明け暮れ、少し手の空いた時には薄暗い書庫の整理を買って出る。埃に埋もれたひなびた紙の匂いに包まれているときだけが、唯一心の安まる時間だった。
  こちらの御館様もお方様も大変に聡明な方で学もあり、特に古書には大変な興味をお持ちである。それで方々で集めたものが荷ほどきも済ませないままで放置されているのだ。その場所に幼い頃から出入りしていた奈瑠は、誰から教わることもなく読み書きを覚え、加えて算術なども簡単なものなら扱えるようになっていた。
  もっと多くのことを学びたい、そう希望したくなることもある。だがその願いを口にするには、彼女の置かれた立場が悪すぎた。博識のある頭でっかちな女子など、好きこのむ殿方はない。学があることはそれだけ縁遠くなるということだ。自分はそれでも構わないと思っても、両親や他の大人からたしなめられれば、それ以上は強く我を通すことも出来ない。

 そうしているうちに、さらに困ったことが起こってしまった。
「月の一族」本家、すなわちこちらの御館様には御兄上となる方のご子息との縁談話が持ち上がったのだ。その御方は本家の跡目殿ではないものの、十分な領地を与えられた館主。前年にこの館の若様が元服を迎えられた折に御父君と共に宴席にお出でになり、奈瑠を見初めたのだという。
  その話がこちらに伝わる前に、すでに御館内の噂になっていた。もしも話がまとまれば、とんでもない玉の輿となる。あちらは側女(そばめ)ではなく、正妻として迎えたいとのこと。使用人の娘としてはこれ以上のことはない話である。
  それまでは奈瑠の元にやってくる縁談話に難色を示していた両親も、さすがにこの話には乗り気になった。何も彼らはお相手の権力に目がくらんだわけではない。ただ、娘が本当に幸せになるのならこの上ないことに違いないと悟ったのだろう。その方は父とも面識があり、とても温和で広いお心をお持ちであるという印象だったそうだ。
  だがそのときにも、奈瑠は決して最後まで首を縦に振ることはなかった。両親に、そして御館様やお方様にいくら説得されようと、その決心は揺るがなかった。そして、その最後に口にしたのが南峰の、両親の生まれた里に戻るという選択である。
  過去に二度三度と訪れたことのあるその地は、奈瑠を温かく迎え入れてくれていた。ひなびた風景、そして自分と同じ姿の村人たち。あの場所には余所者といって蔑む人もない。そこで、手に何かしらの職を付け、ひとりで生きていこうと思っていた。

 この場所にいては、いつも己の外側からしか判断してもらえない。器ばかりを気にされて中身をおろそかにされてはたまらないではないか。もっと自由になりたい、せめていつも前を向いて歩けるようになりたい。そのためには、やはりここを去るほか選択肢は残っていないのだ。
  一族本家の縁談までをお断りしてしまったことが館の使用人や下の村々に広まり、ようやく奈瑠の身辺は静かになった。あの娘はとんでもない偏屈なのだ、誰にも縁づく気がないに違いない。そのように陰口をたたかれることは奈瑠にとってはかえって幸いなことであった。
  自分の荷物の整理など、とうに終わっている。だからいくらかの着替えを風呂敷にまとめるだけで、旅支度はあっという間に終わってしまった。

 翌朝は夜が明ける前に身支度を終えていた。
  人目に付かぬように出立するのが重要であったから、おしゃべりの過ぎる弟妹にも気づかれぬようにしなくてはならない。このたびのことが誰彼となく広まっては御館様にもご迷惑をお掛けすることとなる。あとで上手く説明しておくからと母に説得され、奈瑠は無言のままで家族の居室をあとにした。
「……やれやれ。そうは言っても、あの男だけは相手をしてやらないわけには行かないな」
  館の敷地をぐるりと大回りに歩いていると、やがて背後から地面を大きく揺るがすような足音が聞こえてきた。付き添ってくれていた母が、呆れたように振り返る。
「うおおおおっ! 奈瑠っ、奈瑠はどこだ〜っ……!」
  図体もでかければ声もでかい。その上、ひとつひとつの動作までが大袈裟である。年を重ねたからには相応の落ち着きを、などという言葉が通用する相手ではない。そんな父であるから、遠目にもしっかりとその姿を確認することができた。
「ちょっとっ、おまえさんよ! 少しは大人しくしたらどうなんだい。今回のこの子のお務めのことを、あんただって御館様からきちんと伺っているだろうに」
  奈瑠が臆している間に母はさっさと大男の前に立ちはだかり、腕を伸ばして彼の耳をぎゅうと引っ張る。
「……いてててっ! おいおい、何をするんだ! 俺は奈瑠に用があるんだぞ……!」
  両手両足をばたつかせて駄々をこねる様子はまるで言うこと聞かぬ幼子のようである。これでも館一の武官で腕自慢だと言うのだから、人は見かけによらぬものということなのだろう。
「……父上」
  奈瑠がそっと歩み寄ると、父はその無骨な大きな手で彼女の二の腕を両脇から掴んだ。
「おおっ、奈瑠! よくぞ、お役目を引き受けてくれたな! さすがは、俺様の娘だ。そうだろうよ、あの青二才の手綱を取れるだけの奴はそうそういるもんじゃない。弱腰御曹司もたいそうお目が高いってことか……!」
  ゆさゆさと力任せに揺さぶられたらたまらない。もともと南峰の集落の者は男女に関係なく父のような大柄になるか奈瑠のような線の細い者になるかふたつにひとつだと聞いている。幼い頃はゆくゆくは父のような体格になるのかとひそかに恐れたが、幸いなことに今のところは細身の体型に留まっている。
「……ふうん、誰が青二才だって? 相変わらず口の減らない奴だな、玄太は」
  ―― と、そこに。今ひとりの人影が現れる。その見慣れないお姿に、奈瑠は内心とても驚いていた。
  普段は館の跡目として相応の装束を身につけている御方である。昨夜お目に掛かったときにもそのようないでだちであった。
  だが今は、気軽な庶民の装い。膝を覆いきらない短い着物に細身の下履きを重ねている。それに合わせ、立ち振る舞いまでが軽々しくなっているようだ。しかしそのひとつひとつを確かめれば、素材も仕立ても手の込んだ品々ではあった。
「ははあ、青二才! よくも化けたもんだな、これなら誰もお前のことを『月の館』の跡目殿とは思うまい」
  父が赤子の頃から可愛がっていたと言う若様も、今ではどちらの方が上背があるかと比べてしまうほどになっていた。そんな彼のことを、奈瑠の父も内心ではとても頼もしく思っている。だが、とにかく口の悪い人なので、素直にそのことが言えないのだ。
「まあね、人目を欺くことについては他に類を見ない一族だからな。僕にもその血がしっかり受け継がれているってことだろう」
  この強気な切り返しに、父はまた大声で笑い出す。目の前にいるその人が自分よりも格上であろうと格下であろうとまったく態度を変えない人なのである。その潔さは賞賛にも値すると奈瑠は思っていた。
  ―― 私には到底たどり着くことの出来ない領域であるのだわ。
  父のように何もかもを素直に受け入れ馴染んでいくことができるのであれば、このように異境の地で生きていくのもそう難しいことではないだろう。
  だが、奈瑠は違う。常に周囲の者が自分をどんな目で見ているのかが気に掛かり、そこに少しでも冷たいものが感じ取れればすぐさま心が凍り付いてしまう。この先もそのような心地で生きていくのはもう耐えられなかった。家族と別れて暮らすのは辛いが、自分が心安らかに生きて行くにはそれしか方法がない。
「……ほら、いつまで無駄話をしているんだい。そろそろ皆が起きてくるよ、その前に岡を降りた方がいいとあたしは思うがね」
  何とも奇妙に見えるふたりの軽快な語らいが続く中、ただひとり冷静さを忘れていなかった母が口を挟んだ。
「奈瑠、しっかりお役目を果たしてくるんだよ。お前なら必ず出来る、大丈夫だ」
  それから母は、神妙な面持ちで若様の方へと向き直る。
「犀月様、くれぐれも娘を頼みます。道中お気を付けて、お早いお戻りを」
  次第に明るさを増す東の天に、今朝は薄く靄が掛かっている。そんな中、奈瑠は長い長い道中の第一歩を静かに踏み出していた。

 

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