…6…
丘を降りる頃には辺りの靄も晴れ、凛とした朝の輝きが豊かな里の風景を照らし出していた。気も早く活動を開始した野鳥たちのさえずり、街道の端には朝露に濡れた草花が美しく咲き乱れている。
田畑にはまだ人影は見えない。遠く山裾にぽつりぽつりと見える民家からは白い煙が上がり、そろそろ朝餉の準備が整ったことを知らせていた。
最近では、急ぎの用事でも頼まれない限りはこのように明るい刻限に丘を降りることなどない。折しも芽吹きの季節、新しい希望に満ちた大地には人々の心を惹きつける特別な何かが宿っている。
久しぶりに目に映る風景は何もかもが新鮮で、気の進まないはずの道行きであるのに妙に浮き足だっている自分に気づいてしまう。すでに永遠に立ち去ることを決めていたが、生まれ育った里にはやはり格別の思い入れがあるということなのか。
―― まあ、あまり悠長にしているわけにもいかないだろう。
「月の御方」と呼ばれている我が御館様が治められているのは、月の一族の領地でも「表」と呼ばれる土地。程なくして領地境を迎えることになる。とりあえず、日が高く昇る前にその場所を越えてしまいたい。
自分はともかく、もうひとりの御方はこの土地にあっては顔を知らぬ者のなどいない存在。このたびのお務めの内容を考えれば、できる限り目立たぬよう行動して行かなくてはならない。そう思えば、自然と早足になってしまう。
あまりに急に決まった話であったし、聞かされた情報もほんのわずか。重要なところだけかいつまんで説明されただけに留まっている。しかし、それ以上のことを深く知る必要もないと奈瑠は思っていた。
自分に課せられたお役目を果たせればそれでいい、この先のほんの十日あまりを無事に過ごせば、元の通りの平穏な毎日が戻ってくる。それで御館様ご夫妻や両親が喜んでくれるのなら、とても幸いなことだ。
今は朝日に背中を押されるように歩いている。長い影が足下から遥か前方まで延びて、一歩踏み出すたびに左右に揺れていた。
と、そのとき。
「どうして、そんなに急ぎ足になるの?」
不意に自分に呼びかけたと思われる声を聞いた。少なくとも、夜明けの街道にはふたり以外の影はない。そうなれば、ほぼ間違いはないだろう。
「もう少し、のんびりと歩いてもいいんじゃない? まだ人が出てくるには間があるよ、せっかくだから月の御方ご自慢の土地をゆっくり堪能しようよ」
そのお声は、だいぶ後方から発せられた気がする。丘を降りる頃から、この方の歩みは驚くほど遅かった。しばらく歩くうちに、さらに距離が開いたのではないか。しかも、この笑いを含んだ響きはどうだろう。
「いえ、なるべく先を急いだ方がよろしいと思いますから」
奈瑠は足を止めることもなく、そう答えた。
正直、口を開くことも億劫ではあったが、ここで無視を決め込むのも大人げない。しかも相手は両親がお仕えする御館の跡目殿なのだ。
これが大勢の中であれば話し相手は他にいくらでもいるのだが、今はふたりきりであるのだから仕方ない。
そこでまた、会話は途切れるはずだった。しかし、今回は少し勝手が変わっている。さらに二歩三歩と進んだところで、奈瑠はその異変に気づいた。
「おいおい、今からそこまで気負っていては夕刻までに疲れ果ててしまうよ。まったく、何もわかっていないんだなあ……」
あとからやってくる草履の音が、急に速度を上げた。そうなれば、あっという間に肩を並べるほどに追いつかれてしまう。
「ほら、これでようやく夫婦(めおと)っぽく見えるようになった」
そこまで来て、奈瑠はようやく声の主の方を振り向いた。両親に賑やかに見送られながら丘を降りてから、初めてのことである。
「あんなに離れて歩いていては、まるで他人同士じゃないか。任されたお役目をしっかり果たしてくれなければ、滞りなく道中を進むこともできなくなるよ」
涼しげな眼差しに真っ直ぐに見下ろされて、奈瑠はすぐに視線を逸らしていた。
あまりにも近すぎて、どうにも落ち着かない。普段から人慣れをしていないから、誰であろうと同じように臆してしまったとは思うが、今はお相手が若様であるから尚更である。
「並んで歩いたところで、どうなるものでもないと思いますが」
西南の集落の民は、燃えるような朱色の髪に深い濃緑の瞳、見るからに血の気の多い勇ましい顔立ちをしている。連れだって歩く自分たちが遠目に見てもちぐはぐな組み合わせであることは間違いない。
少し考えれば、それくらい誰にでもわかりそうなものを。こんな風にしていては、行く先々で悪目立ちして逆効果ではないか。
「そう? ならば、もう少し工夫してみようか」
その声に、奈瑠は慌てて身構えていた。たぶん、最初からそうなることを予想していたのだろう。若様には動揺した様子など少しもない。
「……ま、最初はこれくらいが初々しくていいんじゃない?」
いったい、どのようなおつもりなのだろう。目の前にいるはずの御方の真意がまったく理解できない。ここに来るまでの道のり、幾度となく声を掛けられたが気のない返事で過ごしてきた。もうそろそろ、嫌気が差しても良い頃だろう。それなのに、少しも変わったところが見えないのはどうしたことか。
「最初もあとも、私たちにはそのようなものは何もありませんから」
無理に仲が良さそうに過ごす必要はないと思う。もちろん最後まできちんとお供はするつもりであるが、その間どんなに気まずくなろうとも、こっちの知ったところではない。
「そのような戯れ言を仰る暇があれば、若様も早く落ち着かれたらよろしいのです。そうすれば、今回だってわざわざ代役を仕立てる必要もなかったのですから」
さすがにここまでは言い過ぎだったかも知れない。そう思ったが、一度口から出てしまった言葉は取り返しがつかない。
「ふうん、さすがに奈瑠は他の者たちとは違うな。まるで小うるさい年寄りどもみたいに堅苦しいことを言う」
そう言って、わざとらしく首をすくめてみる仕草も軽々しい。年長の御方に対し失礼とは思うが、もう少し年相応にしっかりなさった方が良いと思う。
「お褒めにあずかり、光栄です」
真面目に相手をすることはないと思い、適当にやり過ごす。しかし、会話はそこでは終わらなかった。
「まあ、それでもこのたびはかたちだけでも取り繕う必要がある。だからまずはその『若様』って、呼び方はやめてもらえないかな。僕たちは商家の若夫婦ってことになっているんだから」
「……は?」
思わず聞き返してしまい、そのあとこれが相手の策であったことに気づく。
「どこの世界に妻から『若様』なんて呼ばれる奴がいるんだよ。これじゃ、いっぺんに怪しまれる」
まあ、それも正論だとは思う。とはいえ、咄嗟に他の呼び方を思いつくはずもない。奈瑠にとって、若様はどこまでも若様。それ以上のものでもそれ以下のものでもない。
「急に、そのようなことを言われても、すぐには思いつきません」
夫婦となったふたりがお互いをどう呼び合うかなど、あまり意識したことはなかった。奈瑠の母は父のことを「あんた」とか「おまえさん」、あるいは「とうちゃん」などをその時々で使い分けている。まあ、あれは特殊な例だと思うから、そのまま真似して上手く行くはずもないだろう。だいたい、若様のことを「あんた」なんて絶対に呼べない。
「そうか、何て呼んでもらえるのかと、けっこう期待してたんだけどな」
口ではそのように言いながらも、たいしてがっかりした素振りもない。相変わらずの軽やかな足取りで、憎らしいほどに颯爽と歩いていく。一方の奈瑠は、慣れない草履のせいもあり、すでに指の付け根やかかとに違和感を覚え始めていた。
数日を徒歩で行く道中ならば、それなりの旅装束をするのが慣例である。しかし、今は自分も若様もそうとは見えない軽装であった。着替えや身の回りの道具を小さな行李に入れ、それを風呂敷で包んだものをたすきに渡して背負っているが、それだけでは隣の村に行商に行く物売りのようにも見える。
領地を出るまでは遠出をすること周囲の者たちに悟られぬようにするための策であったが、こんなに早く影響が出てくるとは思わなかった。
正直なところ、それだけのお役目で終わるならどんなにいいかと思う。御館を出てからまだ一刻あまりだと言うのに、張り詰めている心の糸が今にも断ち切れそうである。その上に、若様のこの物言い。これではまるで拷問のようではないか。
しかし、この辛さを訴えるのは、そのまま敗北を意味する気がしてできない。奈瑠はさりげなさを装いながら、歩いていた。
しばらく行くと街道は緩く右に折れ、そこで驚くほど風景が変わる。いつの間にかなだらかな坂に差し掛かっていて、遠くの峰が霞んで続いていた。
「紫峰(しほう)の眺めだ。やはりいつ見ても美しいものだな」
西南の集落の中でも、随一と言われている光景。それは奈瑠の幼い頃の記憶にも強く焼き付いている。
あの頃はまだ、遠乗りをする父に連れられては暴れ馬で領地のあちこちを巡っていた。流れゆく風景はどれも美しく豊かであったが、その中でもあの峰の素晴らしさは圧巻であった。
しばらくはその場に足を止めたあと、若様はぽつりと呟かれる。
「再び、ここに舞い戻れることを祈るしかないな」
そう言って、若様はご自分の右手を胸元に持っていく。その指先が痛ましいほどに震えていることに、奈瑠はハッとした。
「この先の山道を行けば、程なくして小さな宿所に到着する。そこで、軽く昼餉をとって旅支度を調えよう」
朝の気が、ふたりの間をさらさらと流れていく。透明な流れの中に見える細かい泡に、朝日が反射してきらりと光る。その一瞬の輝きは、あっという間に通り過ぎていた。
<< 戻る 次へ >>
Top>Novel>扉>水面に揺れて・6
|