…7…
昼夜の寒暖の差が激しい春先の山道は、想像以上に歩きづらいものであった。足下に注意して歩いていても、あっという間に膝下には跳ね上がった泥のあとが数えきれぬほどついてしまう。
野歩きすら満足にできない自分に嫌気が差し、奈瑠はますます落ち込んでいった。ほんの一刻ほどの間に、幾度このたびの話を引き受けたことを後悔し、我が身を恨んだことか。そして、この先はと心得た先から、新たなぬかるみに足を取られてしまう。
「思いつきで遠回りなどするものじゃないな、余計な手間が増えただけだ」
日頃、何ごとも器用にこなしている御方であった。皆が手を焼く気性の荒い馬なども上手に乗りこなし、周囲の者たちを圧倒していると聞く。直接その現場に立ち会わなくとも、この方の噂は館の至るところにはびこっているのだ。
「まあ……およそ月の御方のお世継ぎとは、思えないお言葉ですこと」
ここまで来る間に、奈瑠の方も次第に遠慮というものがなくなっている。と、言うよりも、自分の身を案じることに精一杯でその他のことにまで気が回らなくなっているのだ。
それならば投げかけられる問いかけに無視を決め込めばいいと思うかも知れないが、残念なことに前を行く人はひとことを発するたびにこちらの反応を探るように後ろを振り向く。二度三度と同じことを繰り返されれば、否応にも反応しなくてはならなくなる。
冬の間は地元の者も立ち入るのが稀な獣道なのだろう。吹きだまりに集まった落ち葉の上にも泥が積もり、さらに歩きにくさが増している。
「何だ、少しは同情してくれると思ったのに」
まったく呆れるばかりの発言であるが、それもあながち嘘ではないのだろう。普段より、この方にとっては「面倒ごと」でしかないお務めをこなされたあとは、気の置けない仲間たちと面白可笑しく過ごすのが常なのだ。絶えず周囲を取り囲むのは男も女も幼い頃からの遊び仲間ばかり。そんな居心地の良さから突然放り出されたら、面白くないと思うのも当然である。
「そのようなこと、初めから期待なさってはいないはずです」
我ながら、情けないくらいかわいげのない発言である。この先のことを考えれば、もう少し自分の置かれた立場というものを考えた方が良さそうなものだが、とにかく今はその余裕すらない。
美しい芽吹きの季節は、一見殺風景に思える山道にも確実に訪れているはずなのだが、悲しいかなその風景を堪能することすらできなかった。頭上の枝から枝へと自由に飛び移っている小鳥たちのさえずりを耳にするにつけ、自由に空を移動できる羽根を持つ彼らを妬ましくすら思ってしまう自分がいる。
次第に足が前に進まなくなってくる。前にも後ろにも、延々と続いていく坂道。進むのも戻るのも同じくらい大変であるように思われた。
―― 初めからこんな風で、上手くいくはずもないのに。
「……できることなら今すぐにでも引き返したいと、思っているのでしょう?」
不意に、とても近い場所から声がした。しばらくは足下ばかりに気をつけて進んでいたから、前を行く人がしばし足を止めていることにも気づかなかった。もう少しのところで鼻先をその背中にぶつけそうになっていた自分に気づいて慌ててしまう。
「今、少し顔色が変わったね。やっぱり、図星だったか」
確かに心内を言い当てられて、少なからず動揺していた。でも表に出すことはなく、上手に取り繕ったはずだ。いたずらに感情を露わにするほどみっともないことはない、奈瑠はいつでも自分にそう言い聞かせて生きてきた。
もしかしたら、カマを掛けられているだけなのかも知れない。そう思って、反応仕掛けた心を落ち着かせる。
「実のところね、僕もあまり気が進まない。そりゃ、都には一度上がってみたかったからね。その夢が果たせるのは喜ばしいことだけど……それだけじゃないから」
ああ、まただ、と思う。
何よりも大切な書状は、若様が自らの懐に忍ばせていた。無意識のうちに幾度もその場所に手が行くことからも、かなり気にしていることがうかがえる。館にあっては、年長の者たちを相手にしてもまったく臆するところがないと言われている御方が、ここまで気負っているとは意外であった。
「ここに何が書いてあるのか、どうして今急いでこれを都に届けなくてはならないのか。その理由は知りたくない?」
さらに畳みかけられて、一瞬言葉に詰まる。一体この方は、自分がどんな返事をすることを願っているのだろう。期待に応える必要などないことは知っているのに、ついついそんな思いを巡らせてしまう。
そして、次の瞬間、奈瑠はそれまで心に湧いたすべての言葉を一掃した。
「私には……難しいことなど何もわかりませんから」
お上の難しい事情など、なにひとつ聞かされてはいない。だいたい、身分を偽ってまでお供をする必要がどこにあるのだろう。いざとなったら自分は、若様の御身はもちろん、その懐の書状も命がけでお守りしなくてはならない立場にある。そんな大役が果たせるとは到底思えないのに。
「そんな風に突っぱねなくてもいいじゃない。君ももう、巻き込まれてしまった立場なんだから」
しばらく同じ場所で足踏みを繰り返したあとで、若様はまた先へと歩き始めた。目の覚めるような蒼い袖口が、右に左に揺れている。そこに描かれている細い草文様までが、はっきりと奈瑠の目に焼き付いていた。それくらい長い間、この人のあとを追っているということなのだろう。
また、頭上で鳥が高く啼いた。羽ばたきの音が、瞬く間に遠のいていく。奈瑠は思わず、その行方を見上げていた。
「都に行けば、楽しいこともたくさんあると思うよ。だからそれに期待をして、道中は楽しく行きたいものだね」
吸い込まれそうな天に、その声までが溶けていく気がした。
まるで自分自身に言い聞かせているような言葉に、どう応えればいいのかわからない。だが、そうは言っても、このまま黙り続けていることは、あまり好ましくないと思われる。
どうしたらいいものかと思いあぐね、またしばらくを無言で歩き続けたあと、奈瑠はやがて意を決して口を開いていた。
「……やはり、このたびは難しいお役目なのですか?」
それを訊ねたところで、何が変わるわけでもないということは承知している。だが、自分自身の覚悟を決めるためにも、やはり真実を知っておく必要があると思う。
今、自分の先を行く人の背には、心細さが見え隠れしている。その想いを受け止めることができるとは到底思えないが、それでも何も知らないのとそうでないのでは、何かが確実に変わってくる気がした。
これも、同じ道のりをしばらく共に歩いてきた結果なのだろうか。
「そうだな、お役目そのものはそう難しくもないのだけど。そこにたどり着くまでの過程で、横槍が入ると面倒かなって感じかな」
ふたりの足音が、いつかひとつに重なり合っていく。どちらかがそうしようと心がけたわけではなく、自然と同じ歩幅になっていたようだ。
「昔から、月の一族は西南の大臣家から煙たがれる存在だからね。大臣家と懇意にしていて取り立てられようとしている領主の中には、隙を狙って我が一族を蹴落としてやろうと考える者がたくさんいる。今は都も混乱の中にあるからね、そういう輩にとっては絶好の機会になるだろう」
宿所に到着するまでに遠回りの山道をわざわざ選んだことにも、何らかの配慮があることは明らかだった。
確かに、月の一族が集落の中で微妙な立場にいることは奈瑠であっても薄々と感づいていた。集落内外を問わず、絶対的な権力を誇示する西南の大臣家。その力は都の竜王家も突き動かすほどのものだと言われている。だが、月の御方は決してその権力に服従することなく、時には反目しても自身の考えを貫く強靱さがあった。
今の大臣様は他でもない、我らが「月の御方」の奥方であるお方様の御兄上に当たる方である。だが、たとえ血を分けた御兄妹であるとはいっても、それだけでは割り切れない部分が多分にあるのだろう。あの奈瑠の父ほどの者であっても、西南の大臣家の出仕にお供したあとは、たいそう憔悴している様子である。それだけ彼の地では神経をすり減らしてくるということなのだ。
「それでは、西南の地を抜けてしまうまではとくに用心しなくてはならないと言うことなのですね」
奈瑠の身につけている知識は皆、書物の中から得たものばかりである。その中には情報が古くなってしまった事柄も少なくないと思うが、今はそのすべてを動員して話を繋いでいくしかない。
ようやく会話らしい会話が成り立ち始めたことに気づいた若様は一瞬瞳を輝かせたが、またすぐに顔を曇らせた。
「いや、そんなに簡単な話ではないよ。どちらにせよ、なるべく早く脇道にそれて西南の地とはおさらばするつもりではあるが、そうなれば今度はまた別の障害が出てくる」
困り果てたように首をすくめるその仕草からは、良家の跡目である重々しさは微塵も感じ取れなかった。
「西南の民が、他の集落の者からどのような目で見られているか知ってる? 僕も詳しくは知らないが、どこへ行ってもあまり好意的に受け入れられることはないらしい」
その言葉は、奈瑠にとってとても意外なものであった。
「しかし……次の竜王様に決まっていらっしゃる御方は、西南の大臣様のご子息と聞いておりますが……」
これも西南の大臣家の勢いを後押しする大きな要因のひとつだと言えよう。もとより竜王家と西南の大臣家との結びつきは強いが、このたびのご婚儀でさらに揺るぎないものになっていくと言える。
「うーん、表向きはそういうことになるのだろうけどね。そこもまた、いろいろ複雑なんだ。次期竜王に内定している亜樹様は、幼き頃から御両親と離れて都でお育ちになった方だからね。どちらかというと今の竜王様の意向に添うところが大きいとされている。だからこそ、この先どうなっていくのかがまったく読めない状況にあるんだ」
「そう……なのでしたか」
それは奈瑠にとって、思いもよらない話だった。西南の地にあっては、他の何人よりも西南の民が絶対である。他の集落の民にその地位を揺るがされるなど、一体誰が想像するだろう。
「心してかからないと、どこに反勢力が潜んでいるかも知れない。西南の民と言うだけで、逆恨みされる例もあとを絶たないからね。こればっかりは、理性だけでは片付けられない難しい問題のようだ。事実、つい先だっても、他の西南の領主の使いが都に上がるその途中で刺客に襲われたらしい」
刹那、互いの肩先が触れ合った。その一瞬の間合いに、互いの心の震えに気づく。
「ここには、我が一族の今後がどうなっていくかを決める内容が詳細に記されている。それをしかるべき者に伝えることができなければ、竜王家との間も一気に緊迫するものになってしまうんだ。だから、どうしても直接手渡す必要がある。それも、その秘密をしっかりと心得た人間の手によって」
そこまで仰ると、若様は憐れみを込めた眼差しで奈瑠を見つめた。
「こっちの勝手な都合で、厄介ごとに巻き込んでしまって申し訳なかったね」
そう言い終える前に、急に背筋を伸ばして己の胸元を叩く。
「ま、しみったれた話はここでおしまいだ。あとは道中、楽しく行こう」
急に早足になったその背中を必死に追いかけていると、やがて宿所のさざめきが遠くに聞こえてきた。
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