…8…
初めて降り立つその宿所は、泥まみれの客人を一同が異様な目で迎え入れた。
遠巻きに見つめる彼らの反応から、ここでは若様の顔がまったく割れていないことに気づく。月の御方の領地から外に一歩踏み出すだけで、奈瑠は今までとはまったく違う感覚を抱くこととなった。
この地ではお互いが共に「余所者」ということになるのか。そのような事態をまったく想定していなかっただけに、とても不思議な心地になる。しかし、そのことに戸惑っているのは奈瑠ひとりだけ。若様の方は普段と同じく飄々としていらっしゃる。ぶしつけな眼差しを投げつけられても、まったく気にしていない様子だ。
歩きにくい山道に、思いがけず多くの時間を費やしてしまったらしい。昼餉どころか八つ時もとっくに過ぎたと言われ、自分の腹時計もたいそうあてにならないものだと呆れてしまった。
「ま、少し早いが今日はここで宿を探すとしようか。一服したら、旅支度を調えればいい」
そうは言っても、まだ日暮れまでにはいくらか間がある。もう少し頑張って、先に進むべきではないだろうか。そう申し上げたい気持ちが喉の奥まで出かかったが、すぐに腰や膝の辺りにひどい疲労感を覚えて呑み込んでしまう。
加えて目眩までを覚えて足下がふらついたところを、脇から延びてきた腕にがっしりと受け止められた。
「ほら、早くこっちへ入りな。可哀想に、べっぴんさんがこんなひどい目に遭うなんて」
それは野太い声であったが、間違いなく女のもの。あっという間に、すぐ側にある建物の中に連れ込まれてしまった。そして、上がり口に腰掛けるようにと言われる。
「あんたもたいそうな乱暴者に捕まったものだね、まったく同情するよ」
頭には手ぬぐいを巻き付け、衣をたすきがけにしているその姿から察するに、仕事の最中だったのであろう。慣れた手つきで水桶を運び、そこに手ぬぐいをひたすと奈瑠の足もそこに突っ込むように言われる。
「いいからいいから、すぐ終わるから大人しくしていな。足が綺麗になったら、その汚れた衣を脱いじまえばいい。なに、すぐその辺から適当なものを見繕ってくるから安心しなよ」
確かに泥足のままで板間に上がることはできない。だが、そうであっても、このように誰かに足を清めてもらう必要などないはずだ。もちろん、自分でやるからいいと断ったのだが、相手は頑として受け入れない。
「いいじゃないか、困ったときはお互い様だ。あんたも若いのに、余計なことに気を回す必要はないって。おや、ずいぶんと腫れ上がってるねえ。これじゃあ、たいそう歩きづらかっただろうよ」
その人は、宿の女将であった。肉付きのよい身体で、きびきびとよく動く。気持ちの良いほどの働きぶりだ。
「本当に災難だったねえ。大方、家の者たちに夫婦(めおと)になるのを反対されて逃げてきたんだろう。……いや、何も説明しなくていいさ。そんな輩はここには珍しくないからね。それにしても、着の身着のままなんて、後先を考えないにも程がある。いいよ、今夜はウチにお泊まり。明日の朝には旅支度を調えてやるからね」
こちらが何も言う前に、とんでもない勘違いをされてしまった。まあ、それも無理はない。たいした支度もせずに泥まみれで宿所に降り立てば、都参りの若夫婦だと認めさせるにはかなり無理がある。
しかも、宿代もいらないといわれてしまい、さすがに驚いてしまった。
「ま、こういうのは出世払いで返してもらうのが気持ちいいもんさ。あんたの旦那もずいぶんと軽々しいように見えるが、あれでいて結構化けるんじゃないか。これでもね、あたしゃ、人を見る目はあるんだ。何しろ、長い間、こんな風に客商売をしているからね」
戸口の辺りでは、宿の主人、すなわちこの女将さんの亭主であろう人が心配そうにうろうろしている。どう考えても自分たちは厄介者だ、しかも払う銭がないわけでもない。必要以上の親切を受ける理由などどこにもないのだ。しかし、そのことをおずおずと切りだそうとしても、すぐにぴしゃりと言い換えされてしまう。
「なんだい、それっていうとあんたはあたしの好意が受け取れないって言うのかい?」
もともとが交渉ごとに慣れてないのだから、こうなってしまっては勝ち目はない。あとのことは若様に任せて大人しくしているほかないだろう。
「今着てる衣もこっちに出しな。明日の朝までには元通りにしてやるよ」
言われるままに上の衣を脱いで肌着姿になる。女将に手渡したその衣は、昨夕お方様より譲り受けたもの。さすがにそのことはすぐにわかったようで、彼女の目の色が変わる。
「お前さんは、ずいぶんと良いとこのお嬢様のようだね。それじゃ、この先はしばらく辛いだろう。だが、若いうちの苦労は買ってでもしておけって言うしな。旦那にはせいぜい頑張ってもらって、そのうちに御殿のようなお屋敷をふたつでも三つでも建ててもらえばいい」
そう言って豪快に笑うと、彼女の腹の肉がたぷたぷと揺れる。その勢いに圧倒されて、奈瑠はもうこれ以上の言葉を返すことができなかった。
戸口から見える表通りを見れば、この宿所はかなりの賑わいがある。月の御方の領地は街道からは少し奥まった場所にあるため、通りすがりの者が立ち寄ることも稀だ。ちらほらと髪の色が薄い旅人なども見受けられ、それがとても新鮮に感じられる。
西南の民と言えば、皆が朱色の髪と濃緑の瞳を持っているのだとばかり思っていた。だが、ここにいる女将を見ても、そうではないことが見て取れる。たぶん、いくらかの北の血が混じっているのだろう。髪の色が少し暗い。しかし、当の本人はそんなことを少しも気に掛けていない様子だ。
物売りの声が聞こえ、その向こうを子供が歓声を上げながら駆け抜けていく。丘の上の狭い敷地内でばかり暮らしてきた奈瑠にとって、その光景は夢の中の出来事のように異様に映った。
だが、これもすべてが真実なのだ。それが証拠に、一日野歩きをした足はこんなにもじんじんと痛んでいるではないか。そして明日も、さらに明後日も、同じように過ぎていくのだ。
「大方、都にでも上がって一旗揚げようって計算なんだろう。あの旦那が考えそうなことだね、だがそうなれば先は長いよ。ゆっくり休んでいかないと、あんたみたいな弱腰じゃたどり着くのも難しいだろうよ。さあ、しっかりと骨休めをしてもらわないとね」
女将さんの強引さは留まるところを知らない。呆気にとられているうちに気づけば、いつの間にか上客用だという部屋に案内されてしまった。
表に板間がひとつあり、奥にもう一間。こちらにはすでにしとねの準備がされている。そこをうっかりと覗いてしまった奈瑠は、ふたつの寝床がぴったりとくっつけられて敷かれていることに度肝を抜かれてしまった。
「……ふうん、たいそうな出迎えもあったものだな。たまにはこんな勘違いも悪くない」
と、そこに。まるで申し合わせたかのように、若様がおいでになる。こちらもこざっぱりとした衣に替わり、手足も綺麗に清められていた。
「これも人徳ってものかな。いやあ、こんな部屋にただで泊めてもらって、しかも旅の支度まで調えてくれるとはね。ここの領主はケチで有名なんだけどなあ……だからって、領民たちまでが右にならえってわけでもないようだ」
そう言って、さっさと敷物の上にどかっと腰を下ろす。そして、女将が用意してあった茶を美味しそうにすすった。
「そっ、そんな……! これは大変な誤解ではありませんか、お願いします、すぐに宿の方々に訂正してください。困りますっ、こんな―― 」
奈瑠がいくら訴えても、若様は悠然と微笑むばかり。御館にいらっしゃるときよりは粗末な衣をまとっているものの、やはりお育ちの良さはこのような場面でも見え隠れする。
「そんなに大声を出したら、いっぺんに素性がばれるぞ」
若様はもう一方の湯飲みをこちらへと差し出す。そのときまで、柱に背を押しつけて立ちつくしていた奈瑠であったが、このように余裕綽々にされてしまうとどうにも気抜けしてしまう。まるで膝から下が崩れ落ちるようにへなへなとその場に座り込んでしまった。
「いいじゃないか、この先も長いんだ。最初からあまり肩に力を入れていると、すぐにへたばってしまうぞ。せっかく思い違いをしてくれたんだ、だったら上手くそれに乗っかればいい」
そういう問題ではない気がする。でも、さらに言葉を重ねるにはここまでの道行きで積み重なった疲労が大きすぎた。
壁に寄りかかったまま、いつの間にかうとうととまどろんでいたらしい。
次第に近づいてくる力強い足音に身体を揺らされ、奈瑠はハッとして姿勢を正した。外はすでにとっぷりと暮れ、部屋は燭台の炎で照らし出されている。たぶん、その仕事を引き受けてくれたのであろう当人は、板間にごろりと仰向けに横たわっていた。こちらも深く寝入っているらしい。
「なんだい、あんまり静かだと思ったら寝ちまったのかい? まったく、しょうもない亭主だねえ……」
何の前触れもなく、表のふすまがさっと開く。遠慮のない女将は、このようなときも例外ではない。確かに若様の仰ったことは一理ある、このたびのお役目は特殊なものであり、どこにいても始終周りを気遣うだけの配慮が必要なのだ。
「まあ、それならいい。あんた、ちょっと顔を貸しな」
突然そのように言われても、いったいどんな風に応じたらいいものか。しかし考える間もなく手を引かれ、奈瑠は女将の自室とおぼしき部屋へと案内された。
「南峰の香油があったのを思い出してね、せっかくだから少しは手入れしたらどうだい? あんたはそのまんまでも十分美しいが、だからといって手間を惜しんでは良くない。都には誘惑も多いんだよ、一度心を掴んだからと安心していれば、盗人狐にうっかり旦那を奪い取られちまう」
裏の料理場からは夕餉の支度の匂いがしている。あれこれと忙しい刻限に、このように暇なことをしていていいのだろうか。
そう問いかける間もなく、女将は自らの手にたっぷりと香油を注ぎ、それをもう一方の手のひらとしっかり馴染ませたあとおもむろに奈瑠の髪を掴んだ。ふわりと花の香が辺りに広がっていく。
「これでもね、あたしゃ若い頃はかなりのもんだったんだよ。うちの亭主の他にも求婚してくる奴はたあんといた、都に上がる途中のお役人さんから一緒においでと言われたこともある。あのとき、本当について行ってたら、今頃はどうしていたんだろうねえ……」
この人は、宿のお客相手にいつもこのようにしているのだろうか。どこまでが本当でどこからが作りものなのかも知れぬ話を延々と続けていく。
「あんたは幸せになれるよ、それはあたしが保証する。だからこの先も、大船に乗ったつもりでお行き」
漂う甘い香りは、奈瑠の心を遠くいざなう。幻想の中でたどり着いたそこは、花々が咲き乱れる南峰の地であった。
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