TopNovel>水面に揺れて・9


…9…

 

 あれやこれやと引き留められた末にようやく戻ると、部屋にはすでに夕餉の支度が整っていた。その膳に並んだ品数の多さに、三度驚かされることとなる。
「こ、これは一体……」
  大振りの膳にはみ出るばかりに置かれた器たちには、色とりどりの料理が溢れそうに盛りつけられていた。その種類も海のもの山のものと多岐に渡っていて、中には見たこともないような食材まである。
「女将の心づくしだってことだ。君はあの者にたいそう気に入られたらしいね」
  そう説明しつつ、若様は濁り酒の入った器を美味そうに飲み干す。その腹の据わった姿に半ば呆れながらも、奈瑠は仕方なく自分用にと用意されていた膳の前に座った。
  だが、箸を手にしたものの、どこから手を着けたらいいものか見当もつかない。普段の食事と言えば、川魚の焼いたものに野菜の煮物や漬け物が並ぶ程度である。しかも食い扶持が多いために、遠慮のない弟や妹に菜を譲ってしまうことも頻繁であった。
  ―― こんな贅沢、あり得ないのに……。
「何、シケた面しているんだよ」
  その声にハッとして向き直れば、若様はすでに皿の半分を腹の中に片付けている。お召しものに合わせて立ち振る舞いまでを庶民のそれに倣っているのか知らないが、御容姿に似合わない豪快な食いっぷりだ。
「あ、いえ……すみません」
  別に謝る必要もないと思うのだが、この方を前にするとやはりどうしても臆してしまう。慣れない道中を進んでいた間は余計なことを考えるゆとりもなかったが、こうして落ち着きを取り戻してみれば戸惑うばかりだ。
  使用人がお仕えしている主と共に食事を摂る機会などそうあるものではない。まあ、奈瑠の父ほどであれば、御館様との出会いからして普通とはかなり違っていたし、そのため無礼講になっていることも多いようだが、それなどは例外中の例外と言えるだろう。
「大方、家の者のことなど考えていたんだろう。だが、食べ残したところで持って帰れるものでもないぞ。馬鹿なことを考えるもんじゃない」
  若様はぞんざいにそう吐き捨てると、どんぶり飯を大口にかきこんだ。
  こちらが気に入らない態度ばかりを取るのが不服なのだろうか。だが、そのようなことは改めて考えるまでもなく最初からわかりきっていたことであった。
「……」
  しかし、このまま我を張りとおしたところで、ますます飯が不味くなるばかりである。奈瑠は自分にそう言い聞かせつつ、少し冷めてしまった菜を口に運んだ。

 この地では、日常的に風呂を使うのはある特定の職に就く女子のみに限定されている。いつからそのような風習が生まれたのかは定かではないが、必要以上に身体を磨くことは卑しい行為だと忌み嫌われていた。
  そうであっても、汚れた身体をそのままにしておくわけにはいかない。ならばどうするのかと言えば、簡単な話。毎晩寝間着に着替える前に炊事場の残り湯をもらって手ぬぐいを絞り、それで全身を拭く。夏場の特に暑い時期などは薄衣を着けたままで河原で水浴びをすることもあるが、それもあって年に一二回のことであった。
  普段は部屋の隅で衝立の陰に隠れてひっそりと行うことも、このように明るい部屋の中ではどうしていいのかわからない。戸惑っているうちに湯桶が届けられ、それを運んできた娘が「湯屋」の存在を教えてくれた。
  旅慣れをしている者であれば当然承知していることであるのだろうが、何もかもが初めてのことであるためにいちいち戸惑ってしまう。そんな自分のことを、若様が心の中でお笑いになっているのかと思うと腹立たしいような情けないような複雑な心地になった。

「ゆや」という響きは耳にしたことはあるが、実際にそのような場所に足を踏み入れるのは初めての経験になる。そこは女子専用とされており、いわば蒸し風呂のような感じであった。脱衣所の外にまでもうもうと湯煙が上がっているのに驚かされる。
  周囲の者たちと同じように肌着のみになって中にはいると、細い板を渡した座席に先客が何人も腰掛けていた。
「おや、珍しい客もあったものだ」
  一番隅に目立たないように座ったつもりであったが、すぐに近くの者に声を掛けられてしまった。やはりここでも南峰の金の髪はよく目立つらしい。
「ずいぶん長いこと旅をしているのかい? 顔色も冴えないようじゃないか」
  そう言って心配そうに奈瑠の顔を覗き込むのは、肉付きの良い中年の女性である。女のみの空間であるということで無礼講とばかりに上半身の肌着をはだけ、豊満な胸の周りに浮き出た汗を手ぬぐいで拭っていた。
  たいそう目のやり場に困りながらも曖昧に微笑むと、その女はすべてを承知したようににやりと笑う。
「まあね、若いうちはいろいろあるだろうよ。それも皆、いずれはいい思い出へと変わるものさ」
  賑わう場所には似たような気風の者が集まってくるのか。心に積もった鬱憤も何もかもをすべて吹き飛ばすような笑い声は、宿の女将さんとどこか似ていた。
  ―― いずれはいい思い出へと変わるもの……。
  もともとの顔見知りもそうでない者も、ここでは誰もがすぐに打ち解けてしまう。湯屋とは何とも不思議なものである。
「あたしだってね、甲斐性のない亭主に何度愛想を尽かそうと思ったか知れないよ。でもね、いざとなると何だか可哀想になってしまってね。あたしまでに見捨てられちまったらこの男は明日からどうやって生きていくのかと思うと、どうにも踏ん切りがつかないんだ。まったくおかしなもんだねえ、そんな風にしているうちに気づけばすっかり古女房になっちまったよ」
  蒸し暑さの中で、皆の肌は一様に赤く火照っている。元の肌色が違うため、その発色はそれぞれで異なるが、そこで面白いことに気づく。十数人は集まっていると思われる湯屋の客の中で圧倒的に多いのは、やはり赤髪を持つ西南の民。だが、その者たちも皆がぴたりと同じわけではない。骨格も肌の色も、そして髪の色も、確かに少しずつ違っている。
  それは昨日までは全く知ることのなかった事実、奈瑠にとっては新鮮な驚きであった。里を一歩外に出ただけで、まったく違う世界が拓ける。それによって何が変わるわけでもないが、知らぬままよりはずっといいと思う。

 慣れない場所ですっかりのぼせてしまい、早々に湯屋を引き上げてしまった。元のとおりの衣を着込んで裏戸から外に出ると、夜の気が肌をさらりとかすめていく。
  昼間は絶えず賑わっていた通りも今はひっそりと静まりかえり、ほとんどの店はすでに戸を立ててしまっている。かろうじて開いているのは赤い提灯を下げた酒場と路地の隅にひっそりと佇む遊女小屋のみ。奈瑠は赤いのれんの向こうから延びた灯りをぼんやりと目で追っていた。
―― 早く、部屋に戻らなくては。
  ふっと頭に浮かんだ想いをすぐに打ち消し、奈瑠は決意をしたように一歩踏み出す。正直、あまり気が進まない。あの場所に戻れば、またあれやこれやと言い合いになってしまうのではないか。
  若様が悪いのだ、自分のことが気に入らないなら放っておいてくれればいいのに、あれやこれやと口を出してくるのだから。お互いに嫌な気分になってしまうのを承知で、どうしてあのようになさるのだろう。聡い方なのだから、それくらいのことは心得ていらっしゃるはずなのに。
  藍に滲む天に月の光はなく、春浅い寒々しさだけが続いていく。湿り気を含んだ気は重く髪を揺らし、一層憂鬱な想いが深くなる。それでも、戻るほかないのだ。それが自らに課せられたお務めなのだから。若様の御身をお守りするために自分は存在する。
  そう思ってふと我が腕を見れば、あまりに弱々しく貧弱である。色白であることがさらにそのことを強調するのは知っていたが、この肌はいくら日の元に晒してもしばらく赤くなっただけですぐに元の色に戻ってしまうのだ。
  脇の入り口から人目を避けて宿に入ると、どこからか賑やかに騒ぎ立てる声が聞こえてきた。酒盛りをしている宿泊客でもいるのだろうか、ずいぶん盛り上がっている様子である。笑い声を耳の端に感じながら足早に廊下を通り過ぎ、一番奥の部屋に進む。表の間の灯りはすでに消えていた。
「遅かったな」
  足下に延びる細い灯りの向こう、すでにお休みになっているものとばかり思っていた方の声がする。
「お前、自分の役目を忘れたわけじゃないだろうな」
「……申し訳ございません」
  すぐにまたお言葉が飛んでくるとしばらくは身構えていたのだが、いつまで経ってもお声は聞こえない。どうしたことかとそちらをうかがえば、かすかに聞こえてきたのは静かな寝息だった。
  ―― こんなに早く、お休みなってしまうなんて。
  思い起こせば、今朝は夜明け前の出立であった。しかも慣れない山道を進み、その道中は何度このまま引き返してしまいたいと願ったか知れない。奈瑠自身もそうであったように、若様もまたたいそうにお疲れであったのだろう。口ではそのようなことは仰らないが、今の状況が何よりの証拠だ。
  ―― それならば、こちらも遠慮することはないわ。
  今頃になって湯あたりが来たのか、急に足下がよろめいた。慌てて踏ん張って持ち直し、そもまま奥の部屋から見えない襖戸の影に身を隠す。そして身につけていた上着を脱ぐと、寝間着代わりの薄物を素早く羽織った。
  枕元の灯りをひとつ残しただけの奥の間は、思わず身構えてしまうほど妖しい空間に思えた。
  ふたつ並んだしとねの間に少しの隙間もないのが気になるが、手前に少しのゆとりも残っていないためどうすることもできない。あちらはもうすっかり寝入ってしまわれているのだからと自分に言い聞かせ、奈瑠も手前のしとねに横になった。柔らかい布団がまるで繭のように身体を包み込み、あっという間に眠気を誘ってくる。
  その日一日で奈瑠が学んだ一番大きなことは、自分の身体を限界まで酷使すればあれこれと思い悩む余裕などどこにも残らないのだという事実だった。

 

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