TopNovel>水面に揺れて・10


…10…

 

 明くる朝目覚めると、隣のしとねはすでにもぬけの殻であった。
  恐ろしく寝過ごしてしまったのかと慌てたが、まだ外は薄暗く夜明け前である。それでも一度目を開いてしまえば気分は冴え渡ってしまい、再び寝直すことも不可能であった。
  そっと表の間を覗くと、ひっそり静まりかえったままのその場所に昨夜宿の女将に渡した衣が畳まれている。どうにもならないほどに飛び散っていた泥も最初からなかったかのように綺麗に戻っていた。これが職人芸なのかと、奈瑠は舌を巻く。
  素早く身支度を整えたころに、若様がふらりとお戻りになった。 
「朝餉は握り飯にしてもらった。準備ができたら、すぐに出るぞ」
  そんな気ぜわしいことになるとは聞いていなかった。しかし若様の方は、冗談で仰っているわけでもないらしい。こちらが寝入っているうちにすっかり身支度を終えられているのは少々面白くなかったが、今はそのようなことにこだわっている場合ではなかった。
「予定していた道は、何やら物騒になっているらしい。宿の主人に脇道を聞いたから、そちらに逸れることにする」
  頭の中に正確な地図が描けない奈瑠は、ひととおりの話を聞いても概要が良く掴めないまま。とりあえず、若様の方はすべてを承知しているらしいので、お任せするほかなかった。
「また山道を行くことになるが、昨日ほどはひどくないらしい。ただ、東側の斜面が溶け出さないうちに上まで登り切ってしまった方がいいそうだ」

 ふたりの出立を見送ってくれた宿の女将は、まるで幼い我が子を旅立たせるかのごとくその別れを悲しんでくれた。袖すり合うも多生の縁、とはよく言ったものだと思う。わずかばかりの関わり合いではあったが、そんな中でも奈瑠はこの女子に確かな信頼を寄せていた。
「立て替えた銭は十倍返しほどにはしてもらおうか、その日を楽しみに待っているよ」
  それほど期待もしていないと言わんばかりに、女将は大声で笑い飛ばす。そんな姿を見守る若様の方は何とも複雑そうなお顔をなさっていた。
「ま、言われた以上の成果はあげたいものだね」
  もう少し神妙にしていればいいのに、嘘のつけない方だ。「一言口が多いのが難点だ」といつも嘆いている御館様のお言葉が、ふっと蘇ってくる。
「奈瑠、そろそろ行くぞ」
  さっさと先に歩き出す若様を気にしながらも、奈瑠は何度も振り返り女将に頭を下げた。何とももどかしいことである。膝下までの長い足袋にがっしりした造りの草履、雨風を防ぐ菅笠まで用意してくれた。あんなに親切な人たちにも素性を明かして礼を言うことができないのである。
「お待ちくださいませ、あのようにしていてはあまりに失礼ではありませんか」
  わざと急ぎ足になっているとしか思えない、このように子供じみた真似をするとは本当にしようのない方だ。
「だいたい、若様は―― 」
「その呼び方はやめろと言っただろう」
  しまったと思ったときは遅かった。気をつけてはいるつもりなのであるが、やはりふと口を突いて出てきてしまうのが習慣というものである。
「本当に呑み込みの悪い奴だな」
  昨日のお疲れが完全に取れていないのだろうか、朝からかなり機嫌が悪そうだ。
「……」
  それでもこちらが失敗したことには変わりない。ひとこと詫びを入れるべきであろうか。そうも思うのだが、なかなか口が思うように動かなかった。

 その後、しばらくは互いに口も聞かずに黙りで過ごしていた。奈瑠はもともとが大人しいたちであるから、静かにしていろと言われれば何時間でもそうしていることができる。ただ、いつもよりも肩をいからせて歩いている後ろ姿に、ふっと不安が過ぎった。それで、つい訊ねてしまう。
「何か不都合があったのですね、やはりすんなりとは都にたどり着けないのでしょうか?」
「お前が心配するほどのことでもない」
  早々に会話を打ち切られてしまえば、次の言葉を口にするのも億劫になってくる。奈瑠は前を行く人に気づかれぬようにふっと溜息を落とすと、何気なく後ろを振り返った。
  少しばかり道が傾斜しているとは感じていたが、いつの間にか驚くほど高い場所まで登ってきていたらしい。重なり合う枝葉の向こうに、つい先ほど別れを告げたばかりの宿所が小さく見えた。
  色とりどりの屋根のほとんどは茅葺き、瓦屋根の屋敷などはよほどの金持ちでもない限り縁のないものなのである。
  そして。いびつなかたちに切り取られたそのひとつひとつの元には、その日の食い扶持を手に入れるために汗水垂らして働く人々がいる。皆がそれぞれの思惑を心に抱き、でもそれを表に出すこともなく過ごしていくのだ。
  ―― 心が絶えずぶつかり合っている場所……。
  人々の往来が続く宿所では、淀む暇もなくすべてが通り過ぎていく。まるで小川の流れに乗って漂っていく木の葉のように。そしてまた、自分自身もそのひとつなのだ。
  さらさらと辺りを通り過ぎていく気。高い場所でひとつにくくった若様の髪が揺れ、そのあとに奈瑠の髪をなびかせていく。邪魔にならないようにひとつに束ねてはいたが、それでも毛先はゆらゆらと舞い上がり絶えず落ち着きがない。
  これまで忌々しい存在でしかなかった金の髪。それに対する認識が、たった半日あまりを宿所で過ごす内にだいぶ変わっていった。人と異なる容姿をしているのは確かに煩わしく厄介ではあるが、何も厭うことではない。広く世の中を見渡せば、自分が恐れていたほどには気にしてはいない人が多いように思える。
  少なすぎる時間でそれを決定づけるのはいささか乱暴ではあったが、長い間心に負っていた重荷がいくらか軽くなった気がしていた。 
「なかなか面白い宿所だったな」
  また、いくらかの沈黙を過ごしていた。いつの間にか心に折り合いを付けたらしい若様がぽつりとそう呟かれたとき、奈瑠は目の前の視界が驚くほど開けてきていることに気づいた。
「奈瑠は相当に肝が据わって見えるからな。あの者たちの見立てでは、僕の方が軽々しく思えるらしいね」
  勝手に決めつけられて言いたい放題されたことについては、それほど腹を立てている様子もない。
「え、それは……」
「こっちにとっては、その方が好都合だ。言いたい奴には好きなだけ言わせておけばいい」
  この山道は、文使いの早馬が利用する抜け道になっているそうだ。なるほど、それほど広くはないが、けものみちと言うにはもったいないほど、頑丈に踏み固められ歩きやすくなっている。
  そして、山肌に添って道が大きく曲がると、今までとはまったく違った風景がそこに現れた。
「まあ……これは」
  奈瑠の予想では、一山越えれば、また広い平原が続いていくはずだった。だが、そこにあったのは、幾重にも連なる峰々。それはまるで、水面に浮かぶ波のように、どこまでもどこまでも続いていく。これより下っていく先にあるのは、果てない常緑の洪水であった。
「さあ、急がないと日暮れまでに宿に着けないぞ。そうなったら、途中で野宿するしかなくなるからな」
  幸い、人里離れたように思える土地でも、随所随所には山守たちの暮らす里が点在しているらしい。
「このたびも馬が使えれば楽ではあったけど、集落を跨ぐには通行証なしでは無理だからな。まだまだ面倒ごとや決まりごとが多くて大変だ」
  そう仰るご本人は馬の名手だ。徒歩(かち)で行くもどかしい道中を、どんなにか億劫にお感じになっていることであろう。
「疲れたなら、そろそろ一服するが」
  その言葉には、首を横に振っていた。昨夜はゆっくりと休めたらしく、とても身体が軽い。それならば、進めるうちにどんどん先に行きたいと思う。
  そう、厄介な時間など早く過ぎてしまえばいい。このたびのことを滞りなく終えることができれば、そのあとには平穏な未来が待っている。
「私は大丈夫です。そちらさえよろしければ、先を急ぎましょう」
  奈瑠の言葉に、若様はまたわかりやすく顔をしかめた。
「強情な奴だ」

  その言葉が、気に乗って奈瑠の耳に届くのとほとんど同時のことだった。
  突然辺りを二分するような鋭い響きがして、ふたりのちょうど間に一本の矢が刺さる。
「……なっ……!」
  真っ白な水鳥の羽根がゆらゆらと揺れるのを呆然と眺めていると、どこからともなく複数の足音が迫ってきた。
「そこの者たち、止まれ!」
  現れたのは、全身を黒い布で覆った大柄な男たちである。その数は三名、何やらただならぬ様子であった。
「……」
  無言のまま、若様が奈瑠の一歩前に出る。そのようにされてはこちらの立場がなくなってしまうのだが、悲しいかな、足が地に吸い付いてしまったかのように動かない。
「お前らか、怪しい宿泊客というのは。悪いことは言わない、懐にあるものを大人しく差しだしてもらおう」
  その中のひとりが進み出て、野太い声でそう告げる。
「懐? ……残念ながら、渡せるものなど何も持ち合わせてはいないのだが」
「……何?」
  顔を隠す布の間から、鋭い目が覗く。
「お人違いではないかな、我らは着の身着のままで逃げ延びる途中。やましいことには変わりないが、そちらには関わりのない人間だ」
  若様は先の宿所での勝手な作り話をそのまま自分のものと置き換えている様子だ。それを聞いた黒い者たちは、慌てたように顔を見合わせる。
「どうする?」
「いや、少しでも怪しい奴がいたら、容赦なく切り捨てろとの仰せだ。迷うまでもないだろう」
  刹那、ゆらりと気が動く。この者たちはただの物盗りなどではない、そのことは明らかであった。
「……ま、これもお前らの運命だ」
  男たちが取り出したのは、鎌のような曲がったかたちをした剣。それが大きく振りかざされたのとほぼ同時に、頭上に張り出していた天を覆うばかりの大枝が大きく揺れた。

 

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