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心が悪しき感情で満ち溢れようとする瞬間、必ず脳裏に蘇る光景がある。
それはとても幼い頃、今では本当にあったことなのか記憶もさだかではなくなっているのだが、それでもこのように繰り返し繰り返し何度も現れるのだから、そのすべてが逃れようもなく鮮明になっていく。
幼き頃から、他の仲間とは離れてひとりきりで過ごすのが常であった。だが、それも本当に最初から周囲にとけ込めなかったわけではないらしい。
とても幼い頃、物心つくかつかないかの奈瑠は、当たり前のように同じ年頃の子らと行動を共にしていた。朝餉をすませればすぐに原っぱに飛び出し、そこに集まってきたお決まりの顔たちと色々な遊びをしたように思う。そこには自分のことを疎んじるような者はいなかったし、奈瑠も奈瑠で自分が皆と姿形が少しちがっていることにもあまり違和感がなかった。
そもそも、己の姿は己では始終確認することもない。手を取り合い、笑い合い、当たり前のように仲間たちと触れ合っていれば、自分が異形の者だという事実からも遠ざかっていられた。
と言うよりも、そもそもそのようなことがいずれ己の心に暗く影を落とすことなど考えにも及ばなかったのだろう。実際、奈瑠の父などは上から下まですべてが西南の民とは違っているにも関わらず、そのことを気に掛けている様子はまったくないではないか。
あのまま平穏な日々が続けば、奈瑠もそのようにおおらかに成長していったのかも知れない。しかし、些細なことがきっかけとなり、幸せな日々は突然幕を閉じた。
あれは正月か何か、とにかく大きな行事のあったときだったように覚えている。
大人も子供も、皆が綺麗に着飾って御館の大広間に集まった。そこでは無礼講な宴が催されていて、歌えや踊れやの大騒ぎ。男たちは皆が酒を浴びるように飲んで顔を赤くして、女たちも彼らの騒ぎに少しも負けていないような甲高い声で談笑していた。
その日、奈瑠は仕立て上がったばかりの新しい衣を着せられていた。瞳の色とよく似合う深い藍の地に可愛らしい春の花々がたくさん描かれている一枚で、父がこの土地でも有名な染め絵師に特別注文したものであったと言う。幼子が身につけるにしては少し大人びすぎている色目であったが、肌の白さや髪の輝きが際だって、鏡に映した自分の姿にしばし見とれてしまったほどである。
くすぐったい衣擦れの音にときめきながら、その日は普段のように仲間たちと駆け回ることもせずに大人しくしていた。両親の影に隠れるように座っていると、当時から館の使用人の間でも一目置かれる存在であった父の元には次々と挨拶に訪れる者たちがいる。普段よりも大人っぽく過ごしている自分が嬉しくて、奈瑠も母の真似をして畏まった挨拶をしていた。
西南の集落の中でも高い地位にある一族でもあり、また領地から上がる禄高も格段に多かったから、御館はいつも活気に満ちていた。皆が、御館様の下にお仕えすることに誇りを持ち、縦にも横にも強い信頼関係で結ばれている。
奈瑠の父は若い頃にはなかなかひとつのところに落ち着くことができず、幾度となく主人を変えていたと言う。そのように様々な人々に接し揉まれてきた人間から見ても、御館様は他の追随を許さないほどご立派な御方であり、それだからこそ最後の主様と認めているのである。
あの頃は、人が集まる場所にいても少しも怖くなかった。人々の眼差しは皆温かく、奈瑠も始終笑顔で過ごしていた。
長いこと座したままの姿勢でいれば、だんだん足もしびれて退屈になってくる。それでもずいぶんと我慢したように思うが、とうとう辛抱ならなくなった奈瑠は子供たちの足音が行き交う渡りの方へと進んでいった。
そこもまた、今日はいっぺんに春が訪れたような華やぎ。洗いざらしの普段着ではなく、新調したばかりの衣をまとえば、言葉通り誰もが「馬子にも衣装」となる。丈も長くそして軽い衣はふわふわと舞い上がり、蝶の羽根のように美しかった。結い上げられた髪にも飾り紐が結ばれ、長く伸ばしたその端が辺りに漂う。
早く自分もあの中に加わりたい。うきうきする気持ちを抑えきれずに足早にそちらに向かおうとした奈瑠の前に、さっと行く手を阻む者が現れた。
「この先は、駄目よ。あなたは行かせないわ」
驚いてその声の主を見上げると、それは志摩(しま)様であった。御館様の弟君、秋月(しゅうげつ)様の姫君で、若様とは従姉弟にあたる方。その後ろには何人ものおつきの者を従えていたが、やはり当人の衣が一段と素晴らしい。伸ばしかけの朱色の御髪は美しく結い上げられて、そこには花のように飾り紐が結ばれていた。勝ち気な口元には紅もひかれている。
「え、ええと……何故でございますか?」
御館の子らの中でも一番の権力者であるこの方に刃向かえるものなどない。それでも奈瑠は、どうしていきなりこのようなことを言われなくてはならないのかわからず、つい聞き返してしまっていた。
「何よ、そんなこともわからないの。この目立ちたがり屋、そんな衣をまとって偉くなったつもりでいるの?」
あまりに心外な言葉であった。その上、蔑んだ目で睨み付けられ、途方に暮れてしまう。
「あなたなんて、この館には必要ないわ。とっとと出て行って!」
志摩様とは年がふたつも違っていたから、それまでご一緒に遊ぶことはなかった。互いの存在は知っているしお目に掛かればご挨拶申し上げるが、それだけの仲。とくに疎んじられることをした覚えもないのに、この仕打ちはどうだろう。
そして、その日を境に、今まで一緒に遊んでくれていた子供たちが奈瑠の前から姿を消した。それが志摩様の差し金であることは承知していたが、小さな奈瑠にはどうすることもできなかった。
それからずっと、ひとりぼっち。最初は悲しくなったりしたが、いつの間にか慣れてしまった。
バリバリと何かが裂ける音がして、目の前の男たちが土煙の中に消える。
いったい何が起こったのかもわからずに大木の枝に覆われたその場所を呆然と眺めていると、どこからか甲高い声がした。
「馬鹿っ! 何やってんだ、早くこっちへ……!」
声の主は、奈瑠の腕を取るとそのまま森の中へと飛び込んでいく。あまりの力強さに振り払うこともできずに、ただただ、それに従うほかなかった。後から続いてくるのは、若様の足音だろうか。とにかく今は、あの場所から少しでも遠ざかるのが得策に違いない。
「ほらっ、もっと早く走れないのかい!? 次にあいつらに見つかったら、今度こそ息の根を止められるよ……!」
その姿は薄闇の中でよく確認できない。でも、これはいったい何者? 先ほどの男たちの正体もわからないままだが、こっちの方もそれと同様だ。
「おいっ、ちょっと待て! このように闇雲に走っては、道に迷うだろう……!」
太い木々の幹の間を器用にすり抜け、奥へ奥へとどこまでも進んでいく。その速さときたら、辺りの風景が長い帯になって見えるよう。さすがの若様も、これには慌てたのだろう。大声でまくし立てている。
「うっさいなあっ! この森はあたしの庭みたいなもんだからな、心配なんていらないよっ!」
一面が落ち葉に覆われた山肌を、滑るように駆け下りていく。片腕を取られている奈瑠は、身体の均衡を保つのに必死だった。
「―― ほらっ、そろそろ到着だよ!」
その声が指し示す方向を見ると、木々の間に細く煙をたなびかせる山小屋が忽然と現れた。ようやく平地に降り立ったところで、やっと奈瑠は解放される。
「じっちゃん! やっぱり、あいつらがまた現れたよ……!」
跳ねるような足取りで声の主が小屋の中へと消えていったのとほぼ同時に、奈瑠の背後でもうひとつの足音が止まった。
「……怪我はないか?」
若様もかなり息が切れているご様子。それも無理はない。とにかく道なき道を延々と進んできたのだ。すでに奈瑠の中では東に進んだのか西に進んだのか、その方角さえもわからなくなっている。
「はい、……でもこれはいったい……」
奈瑠の言葉に応えるかのように、若様がご自分の懐に手をやる。それから、口惜しそうにぽつりと呟いた。
「まあ、そんなところだろうとは思ったけどな」
その言葉の意図がわからずに小首を傾げると、若様は自嘲気味に笑う。
「大方、怪しい客がいたらすぐに報告するようにとでも言われているんだろう。あの宿所には密告者がいるらしいな」
「……そんな……」
それは違うと、大声で言い切ってしまいたい。だが、今となってはそれも無理だ。
「思っていた以上に、面倒なことになりそうだな」
次の言葉がすぐには浮かばず、奈瑠はただ唇を噛みしめた。
あまりにも色々なことが起こりすぎる。まだ館を出て二日目、片道の半分にも達していない。自分たちが果たすべきお役目は、それだけ重いものなのだろうか。
「たぶん、今回のすべての黒幕は―― 」
若様がそこまで言いかけたところで、先ほどの威勢のいい足音が小屋から飛び出してきた。
「ほらっ、そんなとこに突っ立ってないで中へお出でよ! 今日中に一山越えるにしても、ここらで一服していった方がいい」
水桶を抱えたその姿をようやくまじまじと見て、あっと叫んでしまう。
「お前っ、……女子だったのか!?」
奈瑠もそのお言葉に同感であった。この者が自分よりはいくらか年若であることはわかっていたが、その性別までは確認できないでいた。あの素早さ、迷いのなさ。視界の悪い森の中を自在に駆け抜ける俊敏さは、人の子と判断するにも辛いものがあった。
―― まさか、天狗様の使いとも思わなかったけれど……。
「ふんっ、このへっぴり腰! その首が今でもちゃあんと繋がってんのは、あたしのお陰だからね!」
「ほらほら、そのように乱暴な口をきくではない」
そこに、もうひとつの人影が現れる。それは頭を白髪で覆った年老いた男であった。しかしその足取りに危なげなところはなく、背筋もしゃんとしている。
「これはこれは、驚かれましたでしょう。旅の方々、狭苦しい小屋ですが、どうぞお入りください」
その言葉を受けて若様の方を振り返ると、そっと顎で促される。とりあえずは誘いを受けてみようと言うことなのだろう。先に歩き出した人に、奈瑠もすぐに従った。
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