TopNovel>水面に揺れて・12


…12…

 

 外からは簡単な造りと見えた小屋であったが、その内部は驚くほど本格的な家屋のそれであった。ピカピカに磨き込まれた板間、白壁も塗り立てのように輝いている。さりげなく置かれた調度なども、一目で一流品とわかるものばかりであった。
  奈瑠たちを案内した男は、その後すぐに茶の支度をすると言って席を外してしまう。にわかに身の置き場のない心細さに襲われたが、表に通じる戸口が開いたままであることに安堵した。
「……まあ、いい。どんな素性の者かは知らないが、まずは懐に飛び込んでみるしかないだろう」
  それは、かなり危険な賭と言える。もちろん若様も、ご承知の上でのことに違いない。
「そうですね。……でも私、かなり混乱してしまって……」
  正体不明の男たちの襲撃、そこに突然現れた救いの手。そして、ようやく戻った平穏であったが、ここが真に安全であるかどうかなどすぐに判断つくことではない。
  髪もほどけてしまい、今朝洗い上がってきたばかりの衣もすでにあちこち汚れてしまっている。予定していた道を行くのは危険だからとわざわざ迂回したのに、その先でこのような惨事に見舞われるとはどういうことだろう。
「事態は刻一刻と変わってきている、ひとつのことを突き詰めて考えていても埒があかないというものだ。都は……こちらの想像以上に混乱しているのかも知れないな」
  竜王様の姫君と次期竜王候補の亜樹様のご婚礼、それはこの上なく華々しくおめでたいことではある。亜樹様は西南の大臣様のご子息であり、また現竜王様の甥御様にあたる方。海底国全土にも絶対的な力を誇示する西南の大臣家を味方に付けたことで、竜王家の未来は末永く安泰であると言えよう。
  ただ、ひとつの勢力が幅を利かせることを不服に思う者も出てくるとは思う。側女(そばめ)の制度が事実上廃止された竜王家では、他の集落の血が受け継がれることはない。苦汁を飲むことになる者たちは想像以上に多くなるのだろう。
「さ、左様でございますか……」
  やはり一度、引き返した方が良いのではないかと思う。今ならばまだ、間に合う。そうして、改めてしっかりと支度をした上で、しかるべき人材にお役目を任せた方が得策だろう。
「僕は、今更戻るなんて絶対に嫌だからね」
  しかし、まるでこちらの心を読んだように、若様はきっぱりと仰る。
「奈瑠の言いたいことはわかるよ、その顔にしっかり書いてあるからね。でも、このまま逃げ帰って負け犬になるなんてまっぴらだ。それに、いたずらに時間を掛けすぎることで、もっと悪い結果がもたらされる危険がある。とにかく先を急ぐしかないんだ」
  とはいえ、この先も二度三度と同じような惨事に見舞われたら、そのときはどうなるのだ。
  すぐにそうやって言い返したかったが、上手く行かなかった。もしも若様のお言葉に異を唱えるのであれば、それを納得させるような打開策を挙げなくてはならない。今の奈瑠にはそのようなこと、到底思いつかない。
「いやいや、これはお待たせしてしまいましたかな。どうぞ、もっとくつろいでください。そのようにかしこまるような場所ではございませんよ」
  と、そこに、先ほどの男が戻ってきた。すっかり白くなった髪は、以前はどんな色をしていたのだろう。その手がかりは、彼の濃緑の瞳にあった。ただ、その部分もかなり灰に近くなってきてはいたが。
  彼は若様と奈瑠の目の前に、肉厚の茶碗を置いた。そこには色の良い緑茶がなみなみと注がれている。進められるままに一口つければ、それがかなり良い品であることがわかった。
「本当に、とんだ災難でございましたなあ。大方、下の宿所でこの山道のことを聞いておいでだったのでしょう。あの辺は、最近柄の悪い連中がはびこっておりますからね。金目になるものでも奪い取ってやろうという計算だったのではないでしょうか?」
  このような辺鄙な場所に暮らしていながら、老人の立ち振る舞いは驚くほど洗練されている。どんな正式な場に出ても恥ずかしくないほど、何もかもを心得ている様子であった。
「いや、決してそれだけでは済まされない様子であったな」
  すぐにお答えになる若様に、奈瑠はぎょっとした。
「……と、仰いますと?」
  どこまでも温和そうに見えるこの男であるが、とても腹を割って話せるような状況ではないと思う。あちらとしても、当たり障りのない話で終わらせようとしていたに違いない。
「あの者たちは、都に近づく人間をことごとく排除するよう命を受けている様子だ。その裏にはたぶん―― 」
「悪しき勢力が隠れているということですか?」
  わざと濁した言葉尻を捉え、男があとを続ける。こちらが真正面から切り込んだから、それに応えるというのだろうか。しかし、彼の表情には少しの変化も見えなかった。
  それからしばらくは、屋内がしんと静まりかえったままであった。若様は膝の上に置いた手を、何度も解いては握り直している。やがて、老人の口端がすっと上がった。
「お若いのに、ずいぶんと広く心得ているご様子ですね」
  その言葉の意図がみえず、奈瑠は緊張した心をほどけないままに目の前の人をうかがった。いったい、この人は何者なのだろう。まるですべてを承知しているような、不思議な瞳の色をしている。
「この先の道は更に険しくなりますよ。それでも進むお覚悟がおふたりにはありますか?」
  奈瑠はハッとしてとなりに座している人を振り向いた。しかし、彼の方はこちらを振り向く気配はない。その横顔はただ前を見据えている。
「改めて誰かに問われるまでのことはない。初めから、そのつもりでいる」
  刹那。老人は、ふっと顔を崩した。すると、今まで部屋の中を満たしていた緊張が一気にほぐれていく。
「そうですか、そこまで仰るならお止めする必要はありませんね。では、途中まで案内をつけましょう。かなり入り組んだ道ですから、慣れないと迷ってしまいます。でも、他よりはいくらか安全かと思いますよ」
  やはり、その真意が読めない。本当に言葉のままに信用していいものなのか。
  それでも、奈瑠は不思議と迷いがなかった。よくわからないが、強く大きな流れを感じる。そこに向かっていくことで、すべてが正しく導かれるような気がした。
「いったい、貴方は……」
  若様の問いかけに、老人はゆっくりと首を横に振った。
「名乗るほどの者ではありませんよ、私はただの山守です。こうして旅行く人々と触れ合うのが何よりの楽しみなのです」
  そこに、先ほどの娘が戻ってきた。もう、すっかり出掛ける支度を済ましている様子である。
「じっちゃん、話は終わった? 今日は向こうの山まで行ってもいいかな。そろそろ花盛りになっているはずだから」
  明るい声でそう言ったあと、今度は若様の方へと向き直る。
「ほらっ、へっぴり腰! 握り飯を作ってやったから裏の炊事場まで取りにきな!」
  遠慮のいらない物言いに、若様のお顔がわかりやすく歪む。
「お前は、口の利き方を一から叩き込んだ方が良さそうだな。まったく、とんだ山猿に出会ったものだ」
   そんな風に言い返しつつも、申し出には大人しく従うつもりらしい。若様は先に草履に足を突っ込むと戸口から出て行った。

「……あの方は、あなたの御孫様なのですか?」
  奈瑠の言葉に、老人は静かに首を横に振る。
「いえ、そうではありませんよ。さる御館の姫君でいらっしゃるのですが、ひょんなことから親しくなってしまいまして、色々と手伝っていただいています。でも……そろそろ大人になってくださらないと困るのですけどね」
  驚いて目を見開いて見せた奈瑠に、老人は言葉を続ける。
「人の縁とは不思議なものです、最初はまったくの他人同士であった者たちがいつの間にか深く知り合うようになる。そのささやかな幸せを忘れてはならないと思います、たとえどのような立場に置かれたとしても。それが、人として生きるということです」
  小屋の外は、穏やかな陽射しに満たされていた。木々の根元から芽吹き始めた草花たち、新しい若葉に染め上がった森の色。ほんの一刻前には命の危険に晒されるような状況にあったことなど、つい忘れそうになる。
  しかし、この先もすんなりと進んでいけるわけではなさそうだ。
  旅支度を整えながらも、その指先には緊張からの震えが走ってなかなか上手く行かない。そんな奈瑠を知ってか知らずか、老人はただ静かに笑っている。
「ずいぶんと怖がらせてしまったようですね、でも肝試しとしてはちょうど良かったでしょう。もう少し早くにお助けすることもできましたが、あまり手を貸してしまうのもどうかと思いましたしね。―― ええ、私もなかなか意地の悪い人間のようです」
  思わずそちらを振り向いた奈瑠に、彼はさらに言葉を重ねた。
「あちらの方はかなり肝の据わったお人でありますね。あなたも良き人を見つけられました」
  やはり謎めいたばかりの人だ、彼の言わんとしていることがこちらにはなかなか伝わって来ない。
「さあ、そろそろお出でなさい。ぐずぐずしていると、目的地に着くまでに日が暮れてしまいますよ」
  炊事場から戻ってきた娘と若様が、連れだって先に歩き出す。慌ててあとを追いかけ始めた奈瑠は、一度立ち止まって振り返り、老人にもう一度頭を下げようとした。
  しかし、一瞬前までは確かにそこにあったはずの人影が、忽然と消えていた。

「このたびも首尾良く行ったようだね」
  そう声を掛けられたとき、男は元通りの赤髪に戻っていた。毎度のことなので今更驚きもしないが、我が身に起こる変化には戸惑ってしまう。
「まったく、ずいぶんと老け込ませてくれたものだ。その方が疑われる心配がないとは言っても、あまり喜ばしくはないな」
  男は衣についた汚れを払いながら、指先に少しばかり残った雑念を振り切った。
「まあ、こんなものだろう。さあ、そろそろ戻るとするかな」
  その傍らには気の強そうな若い娘が立っている。だが、これがこの者の本来の姿でないことも彼はすでに知っていた。人の姿も、そして我が身も、自在に変化させてしまう。空間を自由に行き交い、そこで起こる災いを事前に食い止める。いったい、この者の正体はなんであろう。それを突き止めることは、一生涯叶わないような気がする。
「そんなに急ぎなさんな。……今日は耳よりの情報を教えてやろうと思っているんだから」
  女は男の前に手のひらを上にして腕を伸ばした。その上に突然光る珠が現れ、そこに朽ち果てた小屋が映る。
「……これは……?」
  呆然とそこを見つめる男に、女は悠然と微笑んだ。
「すぐにそこに飛ばしてやるよ、でもその先のことは自分で考えな。そろそろあんたも、自分の傷を癒すべきだろう」
  紫色の煙の中に、ふたりの影が消えていく。そしてそのあとに、深い森の静寂が残った。

 

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