TopNovel>水面に揺れて・13


…13…

 

 どこまでも続く山道は、まるで緑に透ける洞窟のようであった。枯れ草の敷き詰められた明るい道は両脇も頭上もそのすべてが緑の枝葉で囲われている。
  いったいこの先、どこまで続いているのか。そんな問いかけが、心の中にふっと浮かんでは消えていく。だが、心は不思議なほど穏やかであった。このような心地になるのは丘の上の館を出立してから初めてのことかも知れない。
「見事なものでしょう、ここは鳥の声も遠く聞こえるんだよ?」
  案内役を任された娘は、弾むような足取りで先を急ぐ。いつの間にか、その者に手を取られた奈瑠は、枯れ草に足を取られぬよう歩くことに必死だった。
「……気の歪みを感じるのは、気のせいか」
  一方の若様は、ふたりよりも少し遅れている。かしましいおしゃべりにあっという間に音を上げてしまったのか、最初は果敢にやり返していた会話もだんだん口が重くなってきた様子だ。
「ふうん、あんたも見かけによらず鋭いね」
  娘は後ろを振り向くと、勝ち気そうな笑顔でそう言った。
「初めての人は誰だって驚くよ。ここは地図に載ってない場所だからね」
  まるですべてを自分の手柄のようにして話すのが興味深い。何ごとにも臆せず、のびのびと育ってきた結果なのだろう。女子の身でここまで奔放になれるのは羨ましい限りだ。
「もう少し進んだら、もっと度肝を抜くことになるよ。そのときのあんたの顔が見ものだね」
  一瞬だけ、若様と目があう。何とも複雑そうな色をした瞳が、奈瑠を真っ直ぐに見つめていた。色味を抑えた浅黄の袖が、周囲の緑に溶け出しそうである。
  立ち止まった時間は、またすぐに流れ出す。赤毛の娘はこちらの注意をひくためか、強く手を引いた。
「あたし、初音(はつね)。この山の向こうに家があるんだ」
  あの山守が言うには、この者は相応の身分のある家柄の出であるらしい。だが、そのような堅苦しさは微塵も感じられなかった。
「これでも、来月には裳着の祝いを迎えるんだよ。そのせいで、近頃では館が騒々しくて仕方ないんだ」
  その言葉には、少なからず驚かされた。裳着の祝いと言えば、女子が成人を迎えるための大切な儀式。男子で言う元服にあたり、十三を迎えた春に催されることが多い。
  もちろん、そえは一定の階級以上の家柄でないと執り行うこともない特別の祝いであり、臣下の娘である奈瑠などにはまったく縁のない話であった。
「ならば、主役のお前がいなくては始まらないだろう」
  どんな風に相づちを打ったらいいかわからなくなっていた奈瑠に代わって、後ろから若様の声が飛んでくる。やはり、あまり虫の居所が良くないご様子だ。その苛立ちが言葉の端々に表れている。
「やなこった! あんなの、全然楽しくない。やれ踊りの稽古だ、やれ衣装合わせだと肩の凝ることばかりじゃないか。まったく腹が立つばかりだよ、どうして皆はあたしを早く大人にさせたがるんだろう」
  どうも彼女は本気で腹を立てているらしいということに、少し遅れて奈瑠は気づいた。そのような思考が湧くこと自体、理解できない話だったのである。
「……大人になるのが、お嫌なの?」
  この者がひとつ年下であるだけだという事実に、少なからず驚かされていた。なるほど、自分が実年齢よりも上に見えるというのは当然のことなのかも知れない。
「そんなの当然じゃないか! あたしは綺麗な衣をまとっているより、こんな風に野山を自由に駆け回っている方がよっぽど楽しいよ。山も森も、いつでも変わらない姿であたしを迎え入れてくれる。絶えず腹の内を探り合ってなくちゃあならない人間様の中に埋もれているよりも、よほど生きた心地がするね。……なあ、そうだろ? そうは思わないかい?」
  真正面から同意を求められたところで、すぐに頷くことなど無理だ。この娘と自分とでは、あまりに考え方が違いすぎる。それに、思ったことを素直にすぐ口にすることは、奈瑠にとってあまりに信じがたい行為であった。
「そりゃ、ただの我が儘ってもんだろうが。屁理屈をこねている暇があったら、手習いのひとつでもしたらいいんだ」
「うっさいなあ、あんたには用はないからあっちに行ってろよ!」
  眉をつり上げたその顔でも、かなりの整った面差しであることはわかる。もしもきちんと化粧を施して髪を結い上げれば、どんなにか美しくなるだろう。彼女の内側から沸き立つすべてが、奈瑠にはたまらなく眩しかった。
「それに……裳着を終えたら、今度は輿入れ先を探すことになるんだろう? そっちはもっと面倒だ」
  とはいえ、己の向かうべき運命を振り払う気はないらしい。いつかは腹をくくらなくてはならないことを知っていながら、なかなか真実と向き合えないでいるのだ。
「あたしはいずれ館を去らなくてはならない。でもそうなったら、この里ともそこに暮らしている人々とも別れることになる。そんなのは嫌だ、どうしてあたしは男子に生まれなかったんだろう……?」
  それから娘は、澄んだ眼で奈瑠を見上げた。
「姉ちゃん、あんたはどうだった? 親兄弟と離れることが辛くなかったのかい?」
  その問いかけに、自分たちの素性が全く知られていないことに気づく。まだ時々、自分に与えられたお役目のことを忘れてしまいそうになる。本当に困ったことだ。
  奈瑠が次の言葉に詰まっていると、彼女は構わずに話を続けた。
「あたしは絶対に嫌だ。でもそれをいくら訴えても、父上と母上は少しも耳を貸してはくださらない。きっと、一日でも早く厄介者を片付けたいと、おふたりともそう願っているに違いないんだ」
  そこで、それまで終始気丈に振る舞っていた彼女が、ふっと本音を漏らした。
「……いつまでもこの里で暮らしたい。あたしはどこにも行きたくない」
  互いの立場があまりに違いすぎて、どこかに接点を探そうとしても無理だった。繋いだままの手から、伝わってくる震え。
  ―― 私は……むしろ、早くあの場所を去りたいと願っていたのに。
  奈瑠の心の中に幾重にも絡み合った想いが留まっている。もう長い間、早く大人になって南峰の地へ下ることばかりを考えていた。そのことだけが、自分を守る唯一の方法の様な気がして。
  でも、本当にそうだったのだろうか。
  両親や弟妹には何の不満もない。皆と暮らしてきた日々は、奈瑠にとって常に安らぎであった。それでもすべてを断ち切りたいと思ったのは何故か。そうすることによって、いったい何を得ようとしていたのだろう。
  親兄弟とこの先もずっと一緒にいたいと、実は心の一番奥で祈っていたのではないだろうか……?
  奈瑠はそっと唇を噛みしめた。眩しすぎる緑が、隠しようのない輝きを道を進む者たちに浴びせかけてくる。
  娘の赤髪は邪魔にならないようにくくってあったが、本来の長さはもう身丈にも余るほどになっていた。そこにすべての光を集めたら、どんなにか目映いだろう。今は手入れも行き届かずにいるが、きちんと櫛を入れたらたっぷりと艶やかな流れになりそうだ。
「姉ちゃんの髪、とても綺麗だね」
  そこで、急に話題が違うところに移る。まるで今自分が考えたいたことをそのまま口にされたような気がして、奈瑠は戸惑ってしまった。
「あたし、昔何度か金の髪の人に会ったことがあるんだ。でもあんたとは似ても似つかないような大男だったな。だから、ずっと南峰の民はすべてあんなでかい奴ばかりだと思いこんでいた」
「そ、そうなの……」
  その話にぴたりと合致する人間をごくごく身近に知っている。だからそれほど突飛な話とも思えなかった。まあ、そのことを今口にする必要はないだろう。
「姉ちゃんみたいに美しかったら、他にもたくさんの求婚者がいたんだろうね。でもあたしは違うんだ、噂を聞きつけて興味本位でやって来る馬鹿はいくらもいるけど、そんなのはこっちから願い下げ。あーあ、ほんっと、面倒。こうなったら、適当に石を投げて当たった奴でいいやとか思ってしまうよ」
  彼女が館に戻りたがらない真の理由はこのあたりにあるらしい。なるほど、ここまでの跳ねっ返りであれば、よからぬ噂が立つことは仕方のないこと。しかし当人としてはその渦中に置かれるのは我慢ならないのだろう。心のままに生きていけば、人の道から逸れてしまう。その息苦しさは、奈瑠にも思い当たる節があった。
「何を言ってるんだ、石を当てられた方はいい迷惑だぞ」
  いつの間にか、若様が奈瑠たちに追いついていた。まったく相手にされていないと知りながらも、会話に参加する気は満々であるらしい。
「へーんだ、あんたにだけは言われたくないね」
  心をむき出しにしたふたりのやりとりに、奈瑠はひとり外れて一息ついた。
  ―― そう言えば、似たような話をごく最近聞いたような気がする……。
  元服を迎えるその前から、先手必勝とばかりに次々と舞い込む縁談話。当時の彼は奈瑠が経験した数倍にも数十倍にもあたる煩わしさの渦中にいたと思う。中にはあれこれと理由をつけてお相手となる方を館に送り込もうとする者まで出て、ひとつ発覚するたびに館内は騒然となった。
  いつの間にかその騒動も嘘のように鎮まったが、かつてその苦労を味わった当事者ならば良い助言もできるのではないだろうか。どうしてそうなさらないのか、奈瑠は心底不思議に思っていた。
  それから、またどれくらいの道のりを進んだだろう。目の前が急に拓け、そこには信じられない光景が現れた。
  すぐ下は、谷底。それなのに、一筋の道が向こうの山まで続いている。そう、細く長い枯れ草の帯が宙に浮いているように。
「ふふ、やーっぱり驚いたね!」
  娘は嬉しそうにそう言うと、少し道端に身を寄せて奈瑠たちを先に行かせた。
「何だ、これは」
  さすがの若様もそれ以上の言葉を続けることができないようだ。その姿を見た赤毛の娘はさらに得意げな表情になる。
「すごいだろ、これは『神の道』だよ。でもいつもあるとは限らない、今回も日が落ちたらそこで終わりだって。だから、急いだ方がいいよ」
  日はすでに西に傾き始めていた。この道を通れば、向こうの山まで辿り着けるらしい。しかし、果たして間に合うのだろうか。
「じゃ、あたしはここで! そろそろ館に戻らないと、父上が爆発するからね」
  少しおどけたようにそう告げてから、彼女はふっと真顔に戻った。
「……というか、実はここ、一度にふたりまでしか通れないんだ。だから残念だけど、あんたらとはここでお別れだ」
  そのまま、あっという間に分かれ道をどんどん遠ざかっていく。そして、もうじき角を曲がって見えなくなりそうになるその瞬間に、娘は一度振り返った。
「山の麓に宿所があるから、今夜はそこで休むといいよ。そこから抜け道を使えば、程なく都だ!」
  すべてが夢だったように、元通りに静寂が戻る。
  でもそのときにも、山から山を繋ぐ不思議な道だけは消えずにふたりの目の前にあった。

 

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