…14…
初音は天を覆うほどに生い茂る木々の間をただひたすらに駆け抜けていた。
誰から教えられることもなく生まれもった本能で、両親や弟妹が暮らす館まで帰り着くことができる。これまでもずっとそのようにして流離ってきた。最初はあれやこれやと口うるさくまくし立てていた両親も次第に大人しくなっている。
―― そろそろ、潮時なのだろうか。
自分でもまったくわからない、これから進むべき本当の道がどこにあるのか。悪戯に逃げているばかりでは埒があかないとは知っていたが、だからといって上手い打開策がみつかることもない。
堂々巡りのままに過ぎてきた、何もかも。
緑の洞窟はどこまでも続いていく。息切れするほどの道中を、それでも必死に駆け抜けていた彼女は急に目の前に現れた人影に一度はぶつかりそうなくらいに接近した。
「……うっわっ! ばば様……!」
しかし、彼女の目の前にいたのはどう見ても若い娘。朱色の髪は艶やかに広がり、肌も生気に満ち溢れている。彼女はまったく似合わない呼ばれ方をしたことに気分を害したのか、少しばかり顔を歪めた。
「何をそのように慌てているんだ。お役目はきちんと果たしたにしても、これではせっかくの手柄が帳消しになってしまうよ」
相変わらず、気っ風の良いしゃべり方である。
この者の正体を初音は知らない。ただひとつわかっているのは、彼女が変幻自在に自分の姿を変える術を身につけているということ。最初の頃には度肝を抜かれたが、そのうちに慣れてしまった。
遠い昔、危うく命を落とすところだったのを助けられたのがそもそもの出逢いである。当時、今と同じように向こう見ずだった幼い初音は、初めて入り込んだ山の中で足を踏み外してしまった。そのまま谷底へと真っ逆さま、もう駄目だと覚悟を決めたところで、突然ふわりと身体が浮き上がる。いったい何ごとかと思っているうちに気づいたら崖の上に戻っていた。
そして、目の前に立っていたのはその場にあまりにもふさわしくない人物。足下もおぼつかなく腰も曲がった姿で、しかし真っ白に色を変えた眉の下の窪んだ場所にある目だけが、強い光を放っていた。
「お前さんの命、私が預かったよ」
そう告げる口元が微笑みのかたちに変わる。とてつもなく恐ろしくて、でも何故か引き込まれていた。この不思議な縁から付き合いが始まり、たまに今回のような役目を任される。普段は無人の山小屋に時折やってくるあの老人も、本来は違う姿なのだろうと察していた。
「それで、どうだい。あの若い男は、なかなか骨のある奴だっただろう」
初音が返す言葉を見つけられずにいるうちに、彼女は興味深そうな表情で訊ねてくる。まるで心の中を見透かされたような嫌な気分になって、初音はぷいと横を向いた。
「まあ、今まで出逢った男の中では一番マシな方かも知れないな。でもあいつは駄目だよ、ちゃあんと決まった相手がいるじゃないか」
裳着を間近に控えた自分に、似合いの婿を探してやろうと切り出したのもこの者である。そんなこと余計なお世話だと思ったが、多少の興味もあったのでここはお手並み拝見といくことにした。しかし、その結果がこれである。
「おや、そうかい」
若い女は笑いを噛み殺したような顔になって、それでも神妙に頷いた。
「お前さんにもそれがわかったのか。こりゃまた、ずいぶんと成長したものだ」
自分だってとっくに承知しているくせに、よく言うものだと思う。
「あんなの、誰が見たってわかるじゃないか。相手をするのも馬鹿らしくなったよ、だから少し意地悪をしてやった」
「だろうね、お前さんはもう少し高みの見物をしていても良かったんだ。あの男はなかなかの腕っ節だし、あの程度の雑魚なら簡単に打ち負かすことができただろう。その手柄を全部独り占めにしたんだから、お前も悪い奴だ」
とうとう笑いを抑えきれなくなったらしく、彼女はくくくっと低い声を立てた。
「ずいぶんと、口惜しかったようだね」
この者は、やはり何もかもを知っている。そして、人の心を弄ぶんで楽しんでいるに違いない。それがわかっているのに、抵抗する術もないのだ。
初音は、はあっと大きく息を吐く。そうすることで、胸に詰まったいろいろな感情をすべて外に追い出してしまおうと思ったのだ。事実、少しは気持ちが軽くなったような気がした。
「……あのふたり、上手く行くかな」
今は人のことより自分のことを心配するべきだとは思う。だが、それでも気がかりは残る。
「そんなこと、お前さんが気に病むことじゃないだろう」
若い女はそこで一度言葉を切って、何かを思案しているようであった。
「だが、……そうだね。一度くらい自分の目で確かめる機会を設けてやるのも悪くない。まあ先のことだから確約はできないがね」
「本当に!?」
思いがけない言葉に、初音は身を乗り出していた。その姿を見た女はまた低い声で笑う。
「でもまずは、自分のことをしっかりとすることだね。話はそれからだ」
本当につかみ所のない人だ。いや、この者が「人」であるかどうかもさだかではない。そして、永遠の時を渡るとも思える彼女とは、そろそろ別れのときが訪れようとしている。
「わかってるよ! じゃ、あたしはそろそろ行かなくちゃ。ばばさま、またね!」
しかし、面と向かって惜別の言葉を口にするのはどうも性に合わない。それにこの者は、いつでもきっとどこからか自分のことを見守ってくれているような気がする。ならばそれでいいではないか。
「ああ、せいぜい頑張るんだね。幸運を祈ってるよ」
初音はそれきり一度も振り返ることなく走り去っていく。いつの間にか大人びた背中を頼もしく見守っていた彼女は、やがて紫の煙と共に光の中に溶けていった。
宙に浮かんでいる不思議な道。
その上を歩くことは、予想していたよりもずっと恐ろしいことであった。ちらと足下をうかがえば、身の凍るような深い谷底がある。とはいえ顔を上げれば、いつになったらたどり着くとも思えない向山があまりにも頼りなく見えるだけだ。
「どうした、早くしないと日が暮れるぞ」
ずいぶんと離れた場所から若様の声が聞こえてくる。ふたりの距離はどんどん開いていき、そのうちに追いつこうと努力することすら諦めかけていた。歩みを早めようにも、足がすくんでどうにもできない。
―― 怖い。
奈瑠は泣き出しそうになる気持ちを必死にこらえながら、祈るような気持ちで歩き続けていた。護られた道とは聞いていたが、それにしては渓をゆく気の流れが頬に直に感じ取れる。
「ほら、いい加減にしたらどうだ」
とうとうしびれを切らしたのか、若様はさらに強い口調で怒鳴りつけてくる。しかしこちらとしても、これ以上はどうすることもできない。いったい、この先どうしたらいいのだ。いい加減覚悟を決めなくてはと思うのに、自分の心すら思うように動かすことができないなんて。
このたびの道中で出逢うのは、皆揺るぎない心を持った者ばかりである。真っ直ぐに自分の進むべき道を見定め、迷いもなくそこへ向かって突き進む。その潔さがあまりにも眩しく、そしてとてつもなく恐ろしいものに思えた。
自分には無理だ、到底できない。そのような感情ばかりが胸を深く巣くっていく。
今までずっと、運命から逃げることばかりを考えていた。そうすることでしか、自分自身を守る術はないと思っていたから。でも本当にそれでいいのだろうか。もっと他に道はあるのではないか。
ひとつにまとめた髪が、後ろへ流れていく。夕暮れが近づいてきたのだろうか、気の流れがさきほどよりも強くなった気がする。もう無理だ、どんなに頑張っても向山までは辿り着けない。
「奈瑠」
その声が耳に届く瞬間まで、思考の中にどっぷりと落ち込んでいたようだ。ハッとして顔を上げたとき、すぐ目の前に若様のお姿があり驚く。ずっと立ち止まっていらしたのか、あるいは少し後戻りをなさったのだろうか。どちらせよ、余計な手間を掛けさせてしまったことには違いない。
「……」
自分の唇を動かすことすらできず、奈瑠はただそのお顔を見つめていた。相変わらず、虫の居所が悪い様子。ピリピリとした苛立ちが伝わってくる。
「こんな吹きっさらしの場所にいつまでいられるか、早いところ渡り終えてしまった方がいい」
そんなこと、言われなくたってわかっている。そう答えることもできないでいるうちに、突然若様に片手を掴まれていた。
「行くぞ」
そのまま奈瑠に背を向けた彼は、先ほどまでよりもさらに大股で歩いていく。腕を引かれた状態では、どうしてもついていく他はない。自然と小走りになり、すぐに息が切れる。それでも若様の歩みは変わることはなかった。
初めのうちは歩みを合わせることだけに夢中であったから、余計なことには気が回らなかった。しかし、次第に気持ちが楽になってくると、そこで初めて気づくことがある。
―― 若様のお手が、震えている。
そのようなことは、まったく想像していなかった。だからしばらくは自分の思い違いかと考えていたほどである。大きな手のひらの中に、奈瑠の手はすっぽりと収まってしまう。それと同時に、迷いも苦しみもすべて預けてしまえるような気がした。
「何があっても都までは行き着かなければならない、そのためにはひたすらに進むしかないだろう」
この人のお心の中には、自分がまだ知らないいくつもの感情が潜んでいる。だから瞬間ごとに新しい驚きを感じるのだ。永遠にわかり合えることのないふたりではあるが、当面の目的が同じなのだから歩みを合わせるしかない。
奈瑠が心の奥でそう考えていると、若様はふと思い出したように呟いた。
「……あの娘、本当に余計なことばかりをしてくれる」
その言葉の意味がまったくわからず、ただ聞き流すことしかできない。そして気づけばいつの間にか、向山はふたりのすぐ間近まで迫っていた。
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