TopNovel>水面に揺れて・15


…15…

 

 ようやくしっかりとした大地を踏みしめることができたと思ったが、次の瞬間に足場が恐ろしいほど大きく揺れる。思わず声を上げそうになったが、奈瑠はそれを必死で堪えた。
「なっ、……何だ、これは?」
  妙な違和感を感じていたのは、若様も同様だったらしい。しばらくはふわふわと落ち着かない足下を踏みしめていたが、やがてこちらを振り向いた。
「……あ……」
  しかしその眼差しは、すぐに奈瑠の肩先を越えてもっと遠くに移る。つられて振り返ってみれば、先ほどまで確かに歩いていたはずの枯れ草の一本道が跡形もなく消え失せていた。
  ひんやりとした恐怖を胸に残したままで、繋いでいた手が解かれる。重なり合っていたその場所はしっとりと汗ばんでいた。
「やあ、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
  すると道の先に、落ち葉色の衣を纏った男が姿を見せた。いったい、いつからそこへ立っていたのだろう。人の気配など、今の今まで少しも感じなかったのに。
「お前は?」
  若様の不審に満ちた問いかけにも、彼は静かに微笑んでいる。
「怪しい者ではございませんよ、本日の宿の主にございます。あの御方から知らせを受けて、お二方のご到着をこちらでお待ちしておりました」
  いったいこの者は味方なのか敵なのか、今日は朝から不思議なことばかりが起こる。しかし、後ろにはもう道がない。何があっても前に進むほかないのだ。もともと思い描いていた道筋も、今となってはまったく役に立たなかった。
  こちらが言葉に従うことにしたのを感じ取ったのか、男は手にしていた提灯に火を灯す。ちらちらと闇の近づいてきた山の道が、その部分だけ昼間のように明るくなった。
「それにしても運の良いことですなあ。最近はこの辺りも本当に物騒になりましたからね、毎日のように悪い話を耳にしなくてはなりません。早くこのような事態が収まってくれることを、今は祈るのみです」
  さくさくと地を踏みしめて足を進めているうちに、あの不思議な感覚にも次第に慣れてきた。それでもまだ、時折背筋に冷たいものが通り抜けていく。
「お前も、あの向山の者たちの仲間なのか」
  普段よりも低い声で若様はお訊ねになる。腑に落ちないお気持ちであることは明らかだが、そうは言ってもこのまま煙に巻かれたままでいるわけにもいかぬということなのだろう。不安を隠せないまま見上げた天は、今までに一度も見たことのない色をしており、ここがとても遠い場所であることを思い知らされる。
「さあ……そのたとえが適当なものであるかどうかはわかりませぬが。とても親しい間柄であることには違いありませんね」
  そう告げる面差しをよくよく見れば、男はかなり年配の者である様子。元の色がわからぬほどに色を変えた白い眉の下で、窪んだ灰色の目が微笑んでいる。
「お二方は、『浮の集落』という名を耳にしたことはございませんか」
  そこで一度言葉は途切れたが、あとに続くのは地を踏みしめる乾いた音ばかりであった。
「その名の通りに、ひとつの場所に落ち着くことのない漂う大地であります。北から南、西から東、気の流れの指し示す方へとどこまでも流れてゆくのです。今それがどこにあるのか、それを知るのは海底国広しといえど、ただおひとりのみにございます」
「それは、伝説の中でだけの話ではなかったのか」
  先に若様が言葉を返したが、奈瑠としても同感であった。空を漂う集落の存在は物語絵巻などにはよく登場するお馴染みのものではある。だがそれを真実のこととして捉える者などありはしない。だいたい、しっかりと根付いている大地があちらこちらに漂うなど、想像しろと言われたところでとても無理な話である。
「いえいえ、そのようなそら言をわざわざ口にする者などございましょうか」
  男は短くそう答えると、また静かな微笑みを浮かべる。
「この世には想像の域を軽く超える出来事がいくつも起こります。人はそれを偶然と呼びますが、我々の目から見れば皆どれも確かな根拠に根付いた必然と思えます。あの御方は、ただいまの混乱が早く収まることを心より願っておいでです。世の中が正しい道へと進むためにはいつでも多少の犠牲は必要ですが、それすらも最小限に留めたいとお考えなのでしょう。だとしたら、我々もそのお気持ちに従うまでです」
  それはまるで雲を掴むような不思議な言葉であった。いくつもの感情が辺りを漂い、そのひとつひとつが不思議な音色を伴って心の中に落ちてくる。
「あなた方を無事に都まで送り届けること、そしてそちらの殿方の胸の内にあるものをしかるべき方の手にしかと届けること。それがこのたびわたくしどもに与えられた任務です」
「何故、それを知っている」
  あの山小屋の老人にも、そのような話をした覚えはない。それならば何故、この者は迷いもなく核心を突くのだろう。
「さあ……あの御方におわかりにならないことが、この世にございますでしょうか」

 そのような話を続けているうちに、道の向こうにちらちらと灯りが見えてきた。それが今夜の宿であることは、言われずともわかる。だが、何としたことだろう。こうしているうちにも天の色がめまぐるしく変化していく。
「手狭ではございますが、どうぞおくつろぎください。今宵はこちらでお食事のあと、そのままお休みいただくことになります。心配には及びませんよ、ここはとても安全な場所ですから」
  狭い土間を上がれば、真ん中に大きないろりを構えた板間が続く。奥にはもう一間あるようだが、そこはここまで案内してくれたあの老人の部屋であるらしい。
「では、しばし失礼いたします。何かあれば、裏に声を掛けてください」
  老人が戸口から出て行くと、若様は怒りを抑えきれないようにどかっと上がり口に腰を下ろす。
「ああっ、何がどうなっているのか! まったくわからないことばかりではないか……!」
  他にももっとぶちまけたいことがあったのだろうが、そこは理性で抑えたご様子。ただ、彼のお怒りは収まることを知らないようで、その肩が大きく震えている。
「……奈瑠、桶を取ってくれ」
  そう言われるまで、しばらく我を忘れていたような気がする。本当に、何もかもがめまぐるしく過ぎていった一日であった。今もまだ、渦巻く大地に足を取られているかのような感覚がある。
「は、はい。ただいま」
  とても長い道中であったのに、ふたりの足はあまり汚れてはいなかった。こちらが手を貸す前に、若様はさっさとご自分で洗い終えてしまう。その飛び散るしぶきの中に、少しでも怒りを収めようとしているご様子であった。
  続いて奈瑠も手ぬぐいを受け取ると、ぼんやりした手つきで自分の足を拭う。昨日の晩、あの宿の女将がくれた塗り薬が効いたのだろう、今日はたいした腫れもなく見苦しくない様である。静かに手ぬぐいを浸すたびに水面が揺れ、そこに少し青ざめた自分の顔が映った。
「……何を考えている?」
  手元が止まったことにお気づきになったのか、若様が訊ねてくる。その声に、奈瑠は静かに首を横に振った。
「いえ、……でも少し疲れました」
  それが今の正直な気持ちであった。まぶたを閉じれば、たちどころに今日一日の様々な情景が次々と浮かんでくる。身体は十分に疲れていても、ここまで気が高ぶっていてはすぐには寝付くこともできなそうだ。
「それは当然のことだろう。予想だにしていなかった厄介ごとが、こう次々と起こってはな」
  敷物の上にあぐらをかいて座ると、若様は自嘲気味に笑う。ご自分でも、もうどうしていいのかわからないでいるのだろう。普段であれば、何ごとであってもそつなくこなす方だ。相手に他意はなくとも、馬鹿にされたような苛立ちをお感じになっているのかも知れない。
「ここは……誠に浮いているのでありましょうか?」
  そのような予感は、大地を踏みしめたその瞬間からあった。確かにあの者は言った、自分たちを無事に都まで送り届けるのだと。その響きに含まれている事実を、どうしても悟らないわけにはいかない。
「さあな、だがそうであったところで、いまさら何の不思議もない」
  奈瑠もまったく同感であった。現実感に乏しい、夢のような出来事ばかりが起こるのだが、それがあまりに頻繁であるためにいつか慣れすぎてしまったようだ。この先にどんな事実を新たに突きつけられようと、簡単に受け入れてしまえるような気がする。
「たぶん、もう都は目と鼻の先まで来ているのだろう」
  それもまた、真実に近い話だと思った。そして不思議なことに、せっかく目的地に近づいているというのに、若様のお声が少しも嬉しそうではない。 無事にお役目を終えて早く戻りたいというお気持ちであるはずなのに、どうしたことなのだろうか。

 その晩は、山菜をふんだんに用いた雑炊が主食であった。見たこともない色やかたちのものもあったが、そのどれもが驚くほどに美味である。箸がどんどん進み、問われる前に空になった器を差し出したい衝動に駆られた。
  よくよく考えれば、昼餉も満足に食べてはいない。用意してもらった握り飯もそのままのかたちで残っていた。それもいろりの鍋の中に一緒にいれてもらう。
「はい、もう少し召し上がりませんか? 残ってしまっては、もったいないですからね」
  ここではそうするのがならいなのか、給仕をしつつ老人も一緒にいろりを囲んでいた。あまり口の多い男ではないが、それでもぽつりぽつりと会話が続いていく。
「あ、……ありがとうございます」
  言われるがままに器を出したものの、何とも居心地が悪い。普段ならば、こうして鍋の中を確かめ家族の器に盛り分けるのは奈瑠の役目であった。他人に世話を焼いてもらうことには慣れていない、奈瑠はそんな娘である。
「―― おや、貴女の御両親のどちらかには西南の血が入っているのですね?」
  なみなみと盛った器を奈瑠の手に戻しながら、老人は興味深そうに言った。
「……え、わかるのですか?」
  感情を抑えた問いかけてではあったが、胸の内ではかなり驚いていた。
「ええ、もちろん。すぐにわかりますよ」
  老人の眼差しはどこまでも柔らかである。そして、彼はさらに言った。
「貴女は様々な者たちの心をひとつに結ぶためにお生まれになった方です。生涯をかけて、そのお役目を立派に果たされることを期待しますよ」

 

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