TopNovel>水面に揺れて・16


…16…

 

 その夜。
  しとねに入ってからも、老人のあの言葉が耳元から離れなかった。
  ―― 貴女は様々な者たちの心をひとつに結ぶためにお生まれになった方です。
  あれはただの思いつきで告げられた話なのだろうか。あまりにも現実味がなく、どこか夢物語のような響きがあった。そして、それはあの者が口にしたすべての言葉にも言えることである。
  しかし、あの男は奈瑠の出生のことまでぴたりと言い当ててしまったのだ。そのことはどう説明したら良いのだろう。
  奈瑠の父は生粋の南峰の民であるが、母の方は少し複雑である。奈瑠の母方の祖母になる人は奉公先で西南の民である祖父と出逢い夫婦になった。そして生まれた母はいわゆる「あいの子」と呼ばれる外見を持つ。西南の民の血はとても濃いと言われており、母も一見では西南の者のように見える。だが髪の色も肌の色もどこか生粋の者とは異なっていた。 
  しかし父の血を強く受け継いだ奈瑠は、どこから見ても南峰の民そのものである。今までに一度として、両親のことを言い当てた者はいなかった。
  母はいつでも自分のことを好いてくれていた。その姿が生まれてすぐに死に別れた自分の母親、すなわち奈瑠の祖母に似ていると言い、年を追うごとに豊かになる金の髪を愛おしげに撫でてくれる。だが、そのように慈しまれても、やはり自分の姿は好きになれなかった。
  周囲の者たちと違う容貌をしていると言うことで、煩わしいことばかりが増えていく。過ぎたことを気に病むのはやめよう、一度はそう決意しても、すぐに次の問題が生まれてくる。
  それが辛くて、自らの殻に閉じこもるしかなかった日々。このまま生きながらえても自分らしく胸を張れる日は永遠に来ないのだからと、あの地を去る決意を固めたのだ。
  ……そう、今までの人生はすべて、逃げることばかりを考えていた。そんな自分にいったい何ができるというのだ。やはりあの老人は、口から出任せを言っているだけではないか。そう考えないと、やりきれない気がする。
  いつまでこのようなことを考えていても仕方ない。少しでもいいから休んで明日に備えなければと思うのに、なかなか思うように眠りが訪れてくれないのが恨めしい。
  今夜は多少のゆとりがあったため、ふたりのしとねをわずかに離すことができた。あからさまにするとまるで意識しているように思われるかも知れないと思い、誰も見ていないのを確かめながら自分の分を少しだけずらしたのである。真実を見抜く眼を持っているはずのあの者も、奈瑠たちの関係までは気づかなかったのだろうか。
  傍らのしとねで、若様はすでに寝息を立てている。普段からたくさんの弟妹と同じ板間で休むのが常であったから、傍らに人の気配がすることには慣れっこであった。だから、少しも気に掛ける必要もないのだが、それでもどこか落ち着かない。
  ―― 夫婦のふりをするなんて、若様にとっては別にたいしたことではないのかも知れないわ。
  それは自分も同じであると思い切りたいところであったが、どうにも上手く行かない。そんな自分があまりにも情けなく、そして滑稽であった。
  こちらが思い切れないままの態度をとり続けているからなのだろう。若様の機嫌は日を追うごとに悪くなっていくように思えた。出立してすぐの頃のように気の置けない冗談を言うことも少なくなり、何かというと自虐的でこちらが反応に困るような言動を見せる。
  正直、今の奈瑠にとっては、どんな恐ろしい魔物に襲われそうになるより、仏頂面をした若様と一日を無事に過ごすことの方が難しいような気がした。なるべくお気持ちを逆撫でしないようにと気を遣えば遣うほど、かえってそれが裏目に出てしまったりする。
  ―― ああ、早く無事にお役目を終えて楽になりたい……。
  いったい、日に何度そう願ってしまうのだろう。互いが互いを負担に思いながらも離れることの許されない現実が、明日も明後日も続いていくなんて。
  いつまでこの苦痛に耐えられるのか、自分自身でもわからない。御館様やお方様は何を思ってこのような重責をお与えになったのだろう。あれだけ聡明な方々が考えなしの行動を取るとは思いたくないが、やはりこのたびだけは首を傾げるほかない。
  頼りなく水面を漂っていく枯れ葉、そのうちの一枚が自分自身だと奈瑠は思う。いったいどこまで流れていくのだろう、その行方は誰も教えてはくれない。

 翌朝、簡単な朝餉を済ませると、早々に宿をあとにした。
  昨夜から世話をしてくれている老人の道案内で山道を歩いていくと、急に拓けた高台に出る。その向こうに忽然と現れたひとつの集落に奈瑠たちは目を見張った。
  大小様々で色とりどりの屋根が並ぶ大通り、その向こうには広々とした田畑が続いている。植え付けられたばかりの若い苗がゆらゆらと揺れているのが見て取れた。きちんと整地された土地を見れば、ここに住む者たちの活気が容易に想像できる。ゆったりと流れる河の両端には春の花々が美しく咲き乱れていた。
  夜明け間もない時間帯のためか、まだ辺りに人影は見えない。それでも確かに生命の息吹は感じられる。いったい、この地にはどのような者たちが暮らしているのだろうか。その姿は、髪の色は、瞳の色は……?
  建ち並ぶ住居のあちらこちらから、白い煙が真っ直ぐに上がっている。そこに暮らす人々の暖かい姿がそっと垣間見られる気がした。
  この地もまた、春の盛りであった。季節はどんな場所にも平等に訪れるものらしい。だが、何と穏やかな風景だろう。あそこへ行けば、今までにない安らかな心地になれそうである。
  どうしてもひとつの場所から目をそらすことができない、そんな奈瑠に対し老人はあくまでも控えめな態度で先へと促した。
「……さあ、こちらです。あとはこの一本道をどこまでも下っていくだけですよ」
  ふたりの視線を遮るように老人は促す。それからのどかに広がる風景にそっと目を落とした。
「あれはおふたりには縁のない場所ですから、決してお心をお留めいただきませんよう」
  どうしてはっきりとそう言い切ることができるのか、それがわからない。でもいくら疑いの眼差しを向けたところで、彼の表情はどこまでも穏やかだ。
「この先は二度とお目に掛かることはないでしょう、……そうであることを心から願っておりますよ」

 老人と別れしばらく行くと、ある場所で急に何かが変化した気がした。辺りの風景はそのまま続いているのに、何かが確実に違う。それまで感じていた足下のおぼつかなさも嘘のように消えていた。
「天の色が、変わった」
  先を行く若様が、ひとりごとのように呟く。導かれるように奈瑠も頭上を仰ぎ、その言葉が確かであることを実感した。それまでのぼんやりと霞んだものが綺麗さっぱり取り払われている。不思議な感覚もなくなり、気分もすっきりしてきた。
  やがて、街道と重なり合うと思われる地点に出たときに振り向くと、それまで辿ってきたはずの山道が忽然と姿を消していた。たぶんそうなるのだろうとの予感はあったものの、やはり目前に示されると落ち着かない気分になる。
  いったいこの国には、まだどれくらいの謎があるのだろうか。その奥深さは計り知れないと思う。
  だがそれも、あのままひとつの場所に留まっていたなら、決して気づくことのなかったことである。そして、知ってしまったからこそ、さらに追及したいという気持ちに急き立てられた。その方法もわからぬままに。
  柔らかく流れていく気が、奈瑠の髪を揺らす。あれほどに煩わしく思えていた金の色も、今ではあまり気にならなくなっていた。そのことばかりを気に留める暇などないほどに、新しい出来事に翻弄されていく。非日常的な場面に身を置くことで、奈瑠の心境は確かに変化しつつあった。
「浮の集落、か。……どうにも得体の知れない奴らだな」
  若様は相変わらず虫の居所が悪いらしい。それでも自分が不機嫌であることをこちらに悟られぬよう、必死にお隠しになっている様子だ。やはり上に立つ者として生を受けた運命が、彼の自尊心を支えているのだろう。そうであっても、ピリピリとした雰囲気は辺りに漂い続けており、こちらまで緊張してしまう。
  そうしているうちに、街道に人の往来が次第に増えていく。色とりどりの旅装束。その者たちの様子もそれぞれに違っていて、髪の色だけを見ても赤髪の他に黒や茶、銀、奈瑠と同じ金色の者も見受けられる。今までの道中にこのように賑やかな通りを進んだことはなかったこともあり、奈瑠は急に落ち着かない心地になった。
「こちらは……いったい、どの辺りになるのでしょうか?」
  その問いかけに、若様がこちらを振り返る。
「さあ、どうだろうな。だがやはり昨夜の宿には、何か秘密があるようだ」
  刹那、信じられないことが起こった。
  何の前触れもなく若様の右手が奈瑠の左手を捕らえたのである。そして、手を引かれるままに歩き出していた。
「あ、あの……」
「これだけ人目が多くなったんだ、そろそろ本来の役目を思い出してもらわないとな」
  その声にも今までにない緊張が感じ取れる。
  なだらかな坂道を登った向こう。こんもりとした木立の間から、ちらちらと家並みが見え隠れし始める。それが都の外れにある宿所であることを、そのときの奈瑠はまだ知らずにいた。

 

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