TopNovel>水面に揺れて・17


…17…

 

 朝靄も明け切らぬ前の出立であったはずなのに、たどり着いた宿所ではもう夕餉近くと聞いて驚いてしまう。何が何やらわからぬうちに、時間が急ぎ足で過ぎている。自分たちが不思議な時空の狭間をくぐり抜けてきたのだと悟るのには、まだ経験が浅すぎた。
  ―― このようなこと、絵物語の中の出来事だとばかり思っていたのに……。
  もともと、四、五日はゆうにかかると言われていた旅路である。それが二晩の宿を借りただけで目的地に到着してしまうとは。想像していたよりも遙かに容易くお役目を終えることができることに本来ならば安堵するべきなのに、ただ胸を撫で下ろすだけでは終われないわだかまりが胸の中にくすぶっていた。
  一昨日に立ち寄った宿所とは比較できないほどのたいそうな賑わいを足早にくぐり抜け、奥へ奥へと進んでいく。やがて、若様は一軒の宿の前で足を止めた。
「このまま竜王様の御館に向かうのではないのですか?」
  こうして目指す場所の目と鼻の先までたどり着いているのだ、どう考えてもそうするのが当然だろう。そう思って、つい訊ねてしまうと、若様は返事をする代わりにそれまで繋いでいたふたりの手を乱暴に解いた。そしてそのあとは戸口から顔を出した宿の女将らしき者と、どんどん話を進めてしまう。そうされてしまえば、奈瑠としては黙ってあとに従うほかなかった。

「お役所仕事はこっちが考えているほど簡単には進まないものだ。届けをこれから出したとしても、すぐにお目通りが叶うかどうかはわからない」
  若様が次に奈瑠に対して口を開いたのは、案内された部屋でふたりきりになってから。それまでは宿の者や宿泊客には声を掛けても、一度もこちらを振り向くことはなかった。
  部屋は最初の夜の宿ほどは立派ではなかったが、それでも二間続きになっており、しばらくの滞在にも支障はない広さである。部屋の表には猫の額ほどの庭があり、その向こうは塀を挟んですぐ表通りとなっているようだ。
「そう……なのですか」
「先だって、父上も先方に文を届けてくださってはいるが、当初の予定よりもあまりに早く到着してしまった。このまま段取りを踏まずに乗り込めば、偽者と疑われても文句は言えない」
  そのお言葉に、奈瑠の気持ちは急に冷え込んでいく。
  当初の予定では、しかるべき人物に密書を届けることができれば、そこまでですべてが終わるはずであった。大儀を終えたあとの帰路であれば、往路よりも多少日数が掛かったとしても我慢できる。そう自分の心を奮い立たせていた。
  だが、若様が仰ることももっともである。他の者では肩代わりできないからと、わざわざ月の御方の跡目であるその人自らがお役目を承ったのだ。そのことを思えば、多少のことには目をつむらなくてはならない。相手の方は多忙な官職にあると聞いている。連絡もなしに訪れても留守である可能性も高いだろう。
「まあ、ともあれ天下の都にやってきたんだ。またとない機会なのだから、有意義に過ごすべきだと思うな」
  そんな呟きに重なるように、通りを進んでいく物売りの声が響いている。魚や野菜など、ひとつひとつ名前を告げながら過ぎていく売り文句は生気に満ちていた。家屋も密に建て込んでおり、どこから誰が聞き耳を立てていたとしても文句は言えない。どこに味方がいて、どこに敵がいるのか。そんなことをいちいち考えていたら、気がおかしくなりそうだ。
「この宿はまずまず信頼できるようだ、でも決して心を許すわけにはいかない。そのことだけは決して忘れないで欲しいな」
  その若様の言葉がいったい何を示しているのか、咄嗟には判断がつかない。それくらい奈瑠の心は今までの道中で混乱していたのだ。
「しばらく表の方をうかがってくるから、その間に旅装束を改めてしまった方がいい。この先は余所者だと悟られるといろいろ面倒なことになるから心して欲しい。くれぐれも当初のお役目を忘れないように」
  そう仰るご本人は、さっさと衣の丈を改めて往来の人々と変わらない姿になる。自分の着替えのために気を利かせて席を外してくれたのだと気づいたのは、その背中が障子の向こうに消えてからであった。

 都は想像もできないほどに華やかな場所である。そのことは、頭ではすっかり理解していたつもりだった。しかし実際に足を踏み入れてみると、目に映るもののすべてにただただ圧倒されるばかりである。
  このたびの出立に先立ってお方様が揃えてくれた衣たちは、当初かなり派手なものだと思え、たいそう気後れした。しかし、こうして改めてひとつひとつを取り出してみると、この程度なら控えめなくらいだなと考え直してしまう。
  所変われば品変わる、とは良く言ったもので、今まで小さな村の中で積み上げてきた常識がまったく頼りにならない。いったい自分が何に悩み何に迷ってきたのか、そのことさえも曖昧になっていく。
  ようやく選んだ一枚に袖を通し、見よう見まねで都風に着付けてみる。襟を抜き前の合わせを大きくして重ねた薄物を少し多めに見せるのが、この土地の流儀であるらしい。深い藍の色目が、奈瑠の白い肌や金の髪にとてもよく似合っていた。少し紅を差せば華やかになるかも知れぬと考えたが、それはさすがにやり過ぎかと思いとどまる。
  そうして、表に出てみると、辺りはもう夕暮れの色に赤く染まっていた。人の往来はさらに増えている。行く者去る者、その姿も装束もそれぞれであり、物珍しいばかりだ。自分と同じ金の髪の者も少なからず見受けられ、とても不思議な気持ちになる。
  ところで若様はどちらに行かれたのだろう。そう思って辺りをうかがうと、裏の井戸端の方から聞き慣れた声が聞こえてくる。それに誘われるようにそっと足を向けていた。
  物陰から覗いてみれば、そこは土地の者たちが共同で使う井戸であるらしい。女ばかり数名、年の頃はそれぞれであるが楽しげに言葉を交わしながらおのおのの仕事をしていた。驚いたことに若様はその中にすっかり溶け込んでいたのである。
「旦那、それにしてもずいぶんとべっぴんな嫁をもらったもんだね」
  先にそう声を掛けたのは、今日の宿の女将である。艶やかな朱色の髪を持った中年の女性で、同郷のよしみであるのか初対面の若様とすぐに打ち解けていた。
  すると、菜っ葉を洗っていた黒髪の女子もそれに続く。
「あたしも通りの向こうから見ていて驚いたよ。でも早まったね、新婚早々にこんな華やかな場所に連れて来られちゃ、落ち着いてもいられないだろう。ここでは決まった相手がいようといまいと、たいした問題じゃない。そんな風に考えてる輩がごまんといるんだ」
「そうさね、女房に逃げられる宿と噂になったらこっちは商売あがったりだ。旦那にはくれぐれも気をつけて欲しいものだね」
  最初はいったい何の話をしているのか、それすらわからなかった。しばらくして、自分自身が話題の中心となっていると知って、奈瑠は仰天する。
  そう言えば、あの宿の女将は、先ほどもこちらをたいそう興味深そうに眺めていた。それが実は若様の相手としての品定めをされていたのだと気づき、何とも面白くない気分になる。
  ―― だから、同じ西南の民の女子をお相手に選べば良かったのに……。
  ここまで来てしまったと言うのに、ついついそんな気持ちになってしまう。しかし、当の若様の方はどんな言葉を掛けられようと、たいしたことでもないらしい。
「そうかい、じゃあ何か策を練らないとな。何かいい案はないかい?」
  興味深そうにそう切り返すあたり、少し悪ふざけが過ぎる気もする。しかし、こっそり立ち聞きしている立場ではどうしようもない。普段、里で仲間たちに見せている気の置けない笑顔がそこにあった。
「いい案も何も、夫婦と言えばやることはひとつだろう」
  黒髪の女子がそう言えば、宿の女将も待ってましたとばかりにあとに続く。
「まったくその通りだ。早いとこ、仕込んで逃げられなくしちまえばいいんだよ。それとも、そっちの方はお上品に済ませようって言うのかい?」
  あっという間に話はとんでもない方向に転がり始めていた。耳を塞いでしまいたいような内容であるのに、どうにもその場を立ち去ることができない。そうしたい気持ちはやまやまであるのに、足が地に吸い付いてしまったように動かなくなっている。
  いったいどうしたものかと思っていると、さらに信じられない言葉が耳に飛び込んできた。
「ふうん、そっちのことなら頑張っているんだがな。上手く当てるコツがあるなら、是非教えてもらいたいもんだ」
  井戸を囲んでいた女たちから、どっと笑い声が上がる。若様はあっという間に皆の心を掴んでしまったらしい。もともとがそういう性格の御方であるのだが、場所は変わっても人間性というものはまったく変わらないのだと思い知らされる。
  しかし、奈瑠としてはこのような話題、まったくもって笑いごとではなかった。どうしてこのように面白おかしく話していられるのか、あの者たちの神経が知れない。若様も若様だ、何を言われてもさらりとかわしてしまえばいいのに、さらに盛り上がるようにし向ける必要がどこにあるのだ。ご本人にとってはただの戯れ言かも知れないが、やり玉に挙げられるこちらはいい迷惑である。

 その後ももやもやした気持ちは消えず、運ばれてきた夕餉に箸を付けてもどんな味がするのかぼんやりとしか感じ取ることができなかった。それなりに品数もあり料理を自慢とする宿であることがわかるが、色とりどりの菜を目にするだけで、井戸端での会話が脳裏に蘇ってくる。
「何だ、腹が減っては戦にならないぞ。僕たちにとってはこれからが正念場なんだから、気合いを入れて欲しいものだね」
  もちろん、若様は先ほど奈瑠があの会話を立ち聞きしていたことなど知らない。だから、上手そうな膳を前にしても嬉しそうな顔もしないこちらを忌々しく思っているのだろう。
  そうなのだ、いつも緊張しているのは自分だけ。そのことに改めて思い知らされてしまう。こんな気持ちでいることを決して悟られたくはない。そう思うと、ますます表情が硬くなってしまうのだ。
  そして、寝支度を整えたあとに奥の寝所を覗いて、また仰天してしまう。
「……」
  今度こそ、さすがに声も出ない。何故なら、そこにはひとつのしとねしか準備されていなかったのだから。
「驚くほどのことではないだろう、手狭な宿ではよくあることだ」
  入り口のところで躊躇していると、背後から冷たい声が飛んでくる。そして若様はそのまま奈瑠の脇をすり抜けて、さっさとしとねの向こう側を陣取った。
「上掛けは二枚組になっている、分けて使えばいいだけのことだ」
  そう言うなり、ごろんと横になってこちらに背を向けてしまう。そのまま、彼はこちらの存在など最初からないものと言わんばかりに、さっさと寝息を立て始めた。

 

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