TopNovel>水面に揺れて・18


…18…

 

 都とは想像以上に冷え込む場所であった。
  生まれ育った西南の地よりもかなり北に位置するということは承知していたのだから、ある程度の覚悟はしていたが、まさかこれほどとは。
  薄い掛け布団一枚ではとても暖をとることができない状況で、夜中に幾度となく目が覚めてしまった。今日に限って移動距離も少なく、あまり身体が疲れていないことも一因だったのだろう。
  そのような理由もあるのだろう。朝になり身支度を整えたあとも、なんとなくすっきりしない気分が続いている。熱っぽさなどはないが、やはり本調子とは言えなかった。

「そろそろ出掛けるぞ」
  朝餉を終えたあと、若様はそう仰った。そして奈瑠の返答を待つこともなく、こう続ける。
「昨夕に届けた文の返事が届いた。とにかくは出掛けてみよう」
  都とは、海底国全土を治める竜王様がお住まいになる場所。政(まつりごと)の中心となるのは一番奥にある御館であり、そこは竜王様やそのご家族の方々の住居も兼ねられている。そのため、周辺の警備はとても厳重で、日中であっても決して手を抜かれることはない。
  お仕えする侍従や侍女も各集落から選出され相当な人数になると聞くが、どの者も里で厳しい審査を突破してきたエ逸材ばかりであり、身元もはっきりしている。一見すると和やかな雰囲気に見えても、その実はきちんとした規律の上に成り立っているのだ。
  奈瑠たちが借りたのは都の外れに近い宿であったから、それほどの違和感もなかった。しかし通りを上がっていくと、どんどん辺りの様子が変わっていく。人の多さは相変わらずであったが、その者たちの装いも立ち振る舞いも、今まで里で見聞きしていたものとはだいぶ変わっていた。
  そんな中であるのに、天秤棒を担いだ物売りが器用に人の波をすり抜けていく。そしてすぐ側には厳めしい表情のお役人がふたり、難しそうな話をしながら歩いていった。髪も肌もその色はさまざま、まるで宝石のたくさん詰まった宝箱の中に放り込まれてしまったような気分になる。
  両脇から幾度となく肩を押され、そのたびに歩みが妨げられた。ハッと気づくと、若様との距離が開いてしまい、慌てて駆け寄る。しかし、またいくらもしないうちに、きりりと高い場所で結われた赤髪が遠ざかっていく。若様は上背もあり堂々としているから、正面からやって来る者たちが自然に避けて通っていくようだ。しかしその者たちも、奈瑠には気づかない。
「ずいぶんと騒々しい場所だな」
  このたびもようやく追いついたところで、若様が不意に立ち止まる。そして、その瞬間にも自分たちの側を早足ですり抜けていく人々の姿を興味深く見守り、その後こちらへと振り向いた。
「はぐれないように気をつけろ。一度見失ったら最後、二度と巡り会えなくなるぞ」
  そう仰ると、彼はおもむろに奈瑠の片手を取る。
「お前を置いて戻っては、玄太に何と言われるか知れないからな」
 ここで わざわざ父のことを引き合いに出される理由はよくわからなかったが、奈瑠はその行為を違和感なく受け入れていた。とりあえず若様の導きに従っていれば、これ以上は人の波に流されることもない。手のひらからほんのりと伝わる体温がそのまま安心感になった。
  ―― 竜王様の御館にたどり着くまでの道中ですらこんなに混乱しているのに……いったい、この先はどうなっているのだろう。
  どうして人は皆、好きこのんでこのような雑踏の中にやって来るのだろう。のんびりと田舎暮らしを続けていた方がよほど良いではないか。それなのに、毎年の人事異動の際には、その年に出仕する役人の枠に入りたいと躍起になる者たちがたくさんいると聞く。
  西南の集落は竜王家とはとても深い関係にあり、そのぶん出仕する人数も多く割り当てられる。だが、その分希望者も多く、晴れて希望を叶えるためには大変な倍率をくぐり抜ける必要があるらしい。
  方法も幾通りかあるが、一番よく知られているやり方は次の通りである。まず村長様に自分の意を伝え、承諾されれば領主様のもとにその名が伝えられる。そうして集められた名簿が最終的には集落の大臣家に持ち込まれる。そこに至るまでには大多数がふるいに掛けられて落とされるし、簡単にいく話ではない。
  女子の身であれば、そもそも大志を抱くのも難しい。竜王様の御館には侍女や下女も多く仕えていたが、その多くはある一定以上の身分のある家柄の者かその使用人となる。
  自分にとって、どこよりも遠い場所。それが奈瑠にとっての「都」であった。それなのに今、その土地に立ち、人々の往来に揉まれている。あまりにも信じがたく、気の遠くなるような思いがした。
  そのようにして半刻ほども歩いただろうか。ようやくふたりの目の前に、大きな通用門が見えてきた。竜王様の御館はその敷地全体が高い塀で囲われている。その中央に位置するのが、この中央通用門。厳めしい面構えの門番が、左右にふたり立っている。それぞれが長刀を携えているのも恐ろしい。
「通行証をこちらへ」
  その声を待っていましたとばかりに、若様は懐から一枚の紙を取り出す。それは月の御方の御館を出立するときに託されたもの。今回お届けする書状の次に大切なものとされていた。
「よろしい、通行を許可する」
  そして、くぐり抜けた先にあったのは、広大な御庭であった。肝心の建物らしきものはどこにも見当たらない。長屋のような家屋は右手奥に並んでいるが、これが竜王様の住まう御殿とは到底思えないだろう。
  今はまさに春の盛り、国中から集められたのではないかと思われる色もかたちもさまざまな花々が競い合うように咲き誇っている。その中を曲がりくねって進んでいく道を辿れば、小高い丘の上にある御館がようやく姿を見せた。
「さすがは天下一の御庭だな」
  敷地内に入ると、それまでの喧噪が嘘のように穏やかな雰囲気となった。人影は多いが、あの雑踏をくぐり抜けてきた身にとっては、天国のように感じられる。
  花園の小道を歩く者たちの中には、奈瑠と同じ年頃の女子も多く見受けられた。この者たちは竜王様の御館にお仕えする侍女なのだろう。皆が色とりどりの美しい重ねをまとい、髪にも飾り紐を結んでいる。そして美しく引かれた紅、その輝きは花の色にも勝るほどであった。
  もちろん、男たちも多くいる。侍従はその職種によって衣に使用される色が決まっており、遠目に見てもどこに属する者なのかすぐに判断がつくようになっていた。
  そしてさらに驚いたことには、この地では男女が人前で当たり前のように睦み合っている。まだ日も高い刻限だというのに肩を抱き合ったり、親しげに顔を近づけたり。その姿は観ている方が恥ずかしくなってしまう程である。そんな姿を目の当たりにしてしまえば、雑踏の中ではぐれぬように手を繋ぎ合う様など当然のように思われてきた。
「ああ、今は春の異動の時期ですからね。毎年この時期は、新しく官職に就いた者や任期を終えて故郷に戻る者が入り乱れて、この通りとても賑やかなのですよ」
  訪ねたのは、竜王様の御館の中で「東所」と呼ばれる対。そこは竜王様とそのお后様の寝殿を兼ねる場所であったが、その奥には海底国じゅうの膨大な蔵書が収められている「書庫」があった。
  このたびの文を渡す相手は、そこの責任者をしていた。月の一族ゆかりのその者は、都への出仕の折りにその才を認められ、規定の任期が終了したあともこの地に留まることになったという。しかし、今対応してくれているのは本人ではなく、彼の部下のひとりであった。
「お出でになるのが早く、大変驚きました。先だっての文は書庫長の手に渡っておりますが、ただいま所用で留守にしております。こちらの文は私が責任を持ってお預かりしますが、お言付けなどもございますでしょうから、三日後にもう一度こちらにお越しください」
  李雨(リウ)と名乗るその男は、まだ年若い。そして、以前は西南の大臣家でご子息の御教育係になっていた時期もあり、その際に若様と交流があったという。もちろん双方にとってもこのたびの再会は驚きであったようで、前々から知っていたことではないらしい。髪は金茶であり、生粋の西南の民ではないようだ。
「もう二年も前のことになりますか、月の御方にもお変わりはありませんか? 誠にお懐かしゅうございます」
  書庫を管理する文官は、皆あずき色の下重ねを身につけている。それをわざと多く見せるように着付けられているため、他の者が入ればすぐにわかるようになっていた。
「まだ三日も戻らないのか。相変わらず、多忙なご様子だな」
「ええ、この時期は仕方がありませんよ。しかも、今年は竜王様の姫君のご婚礼も重なりましたからね。さらに人の出入りも増え、警護に当たる者たちも皆神経を尖らせています。早く元通りになれば良いのですが……なかなかそれも難しいようです」
  そう言えば、書庫の内部にも本来ならば建物の外部から警護をする表の侍従たちが数名見受けられる。書物を探す振りをしているが、多分それだけではないのだろう。
「いろいろ、きな臭い動きもあるのか?」
「……まあ、そんなところです」
  一段と声を潜めたやりとりが続いていく。
「でも、無事にこちらの文を頂戴することができて本当に良かったです。月の御方のお心は私どもも良く承知しているつもりですが、やはりお上にご報告する際には万にひとつの間違いもあってはなりません。そのためにおふた方には大変なご苦労をさせてしまいましたね」
  さらりと伝えられた言葉であったが、その内容は奈瑠の想像を遙かに超えるものであった。確かにこの者は「お上」と言った。その名で呼ばれる御方は、この地にあってはただおひとりではないか。
  ―― 竜王様へお伝えしなくてはならないこと。
  その内容の重さを考えることは、奈瑠にとってあまりに難解ではある。彼女の両親がお仕えする「月の御方」は西南の大臣家にお仕えしている身で、だから直接の主様は西南の大臣様ということになる。もしもお上に何か進言することになれば、まずはそこを通すのが当然だろう。直に申し上げるなど、あってはならないことだ。
  しかし、それを知っていながら、わざわざ脇道に逸れたのだとしたら……。
  ようやく文を渡し重荷が下りたと思ったのに、さらに重いものが心にのしかかってくる。自分たちが今までしてきたことは、もしや西南の大臣家に刃向かう行為であったのではないだろうか。となれば、行く手に立ちはだかった謎の者たちの正体は―― 。
「さあさあ、こんな場所でいつまでも立ち話していても仕方ありません。今はこちらの御館も、その塀の外も大変賑やかですよ。明日には恒例の春祭りも始まります。せっかくの機会ですから、ぜひおふたりで見物なさっては如何ですか?」
  明るい提案に、奈瑠は思わず若様の方を振り向いた。しかし彼の視線は、未だに目の前の文官に向けられている。
「こちらには焼き物に関する資料も多くあるだろう。それをいくつか見せてもらえないかな?」
  意外なお言葉に、奈瑠は次の言葉を失っていた。 

 

<< 戻る       次へ >>


TopNovel>水面に揺れて・18